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 2009年の夏の終わり頃、我家では久々に海外旅行の計画が持ち上がりました。

 日程は10年3月下旬から10日前後、主人が休みを取るという前提の計画です。
 年末からのをアテにして、年明けには飛行機の座席を確保、ホテル選びを始めてきたこれまでとは違って、今回は思い立ってから出発までの準備時間が、我家にとっては不十分。しかも休暇も計画段階では年末年始程の確実性が無いということで、個人旅行ではなくお手軽なパックツアーの利用で手を打つことになりました。
 ならば、個人では足を伸ばしにくい場所もこのさいだから...ということで、
 エディンバラと湖水地方、ノイシュバンシュタイン城をハイライトにしたドイツ周遊などにもゆれうごかされながら、およそ1ヶ月後に、モン・サン・ミッシェルとルーアンの大聖堂、そして、ルーブルでもオルセーでもなくパリではオランジュリー美術館を訪ねるコースに絞ってパンフレットを比較検討の末、『パリとフランスの世界遺産を訪ねる8日間』を選択しました。
 
 主人にとっては初の周遊型海外パックツアーです。
 義妹とのドイツ、母達とのニュージーランドに続く3度目となるわたしとしても、得意なスタイルではありませんが、限られた日数内で行動範囲を拡げようと思えばバスで移動する周遊型ツアーの利点は侮れません。
 それなりの覚悟をもって、5日連続の宿替えと団体行動に挑戦することになりました。とはいえ、ストレス(自分たちのペースで動けないことに対して)を抱えての帰国は残念なので、自衛策として帰国日を延長、パリで3日間のフリースティを添えての9泊11日間の旅となりました。

                                    10/03/26 

 

  
                       

ツアー1日目 翌日の観光に備えて約3時間のバス移動。空港からブロアへ

 成田からパリまでは、空路12時間半少々。

 成田のツアーカウンターで話をした添乗員と次に会ったのは、自分の座席番号を伝えにきた飛行機の中でした。その時の指示は、到着後は(添乗員よりも)わたしたちのほうが早く飛行機を降りることになるので、出たところで待っているようにとのことでした。
 添乗員同行のツアー参加は初めての主人は“出たところ”を入国検査後と思っていたようで、飛行機を出てすぐと理解したわたしとは意見が食い違い、着陸間近になって添乗員席まで確認に行きました。
 “飛行機を降りてすぐのあたり”が正解でした。過去2回のツアー参加経験で、みんな揃って入国審査に向ったわたしの記憶が役にたちました。

 が...降りてすぐのあたりは、通路なんですね〜。数人が立ち止まれば通行の邪魔になるくらいの、通路なわけです。少し先に行くべきかどうか迷っているうちに、エコノミークラスでは最前方エリアの席だった添乗員が降りてきたので、彼女の誘導で先にすすみ、通路に一区切りついた地点(それより先に続くのは、エスカレーター....ではなくアップダウンのある、長い長い動く歩道です。)他のゲストを待つことになりました。
 気がつけば、ごく近くに立ち止まっているゲストが一組。
 同じツアーのゲストに(ほぼ)間違いはなさそうなのですが....お互いに見知らぬ相手と視線を会わせることもなく、『見知らぬ仲間』が増える時を待ちました。以前に参加したツアーでは、出発前に一旦参加者全員が集まったところで、添乗員から挨拶や注意事項を中心にした話があったので、到着した時には、ツアー仲間は一応の顔見知り...。「お疲れさま。」などと短い単語のやり取りも自然だった気がしますが、ここで集まったのは添乗員以外はお互いに見知らぬ相手です。それぞれが添乗員とは黙礼をするかしないか...無言で寄り集まってくるというのは、わたしにはあまり気持ちのいいものではなかったです。
 で、乗客の流れが途切れがちになってもまだ、頭数が、揃わない。添乗員は人数チェックをしては、もう少し待ちましょうを繰り返した後で、名簿を片手に点呼を実施しました。いないのが誰かを特定する為ですね。そしてなんと、“それらしきお客”を見かけなかったかと、わたしにたずねてくるではありませんか。その“誰か”は添乗員とわたしたちの間の席に座っていたそうで、わたしたちよりも後、彼女よりも前に降りているはずだというのです。そういうお客はもちろん沢山いましたが、“それらしきお客”の目印もありませんしね、判らないと応えると、結局もう少し先で待っているのだろうとの判断がくだされました。
 一組、2名不足のまま、わたしたちは添乗員に続いて(アップダウンのある動く歩道では、バランス感覚が要求されそうです。帰路、わたしはいきなり転びました)入国審査を終え、再び点呼を受けましたが、入国しても人数変わらず、でした。

 わたしたちは、探している相手の名前はもちろん外見も服の色も知らないので、例えば視線の先の方に見ていたとしても見つけることは出来ませんし、逆もまた同じ。見覚えがあれば(こちらの)16人の内の1人に気がつけば合流できますが、なんといっても相手を特定できるのは、添乗員ただ一人という状況で、彼女の意識は“不明者確保”に傾いていたのかもしれません。
 そのせいかどうか...預けた荷物を受取るターンテーブル番号案内掲示版も、場所も、彼女よりも主人が先に把握しました。
 そして、そこでも、“自分のスーツケースを取ったら一旦集合”という彼女の指示は適切ではありませんでした。というのも、スーツケースは主人に任せてその間にトイレをすませてしまおうとしたわたしは、ターンテーブルの反対側で、既にテーブルからおろされてある自分たちのスーツケースを目にしたのです。近づいてみると、一緒にまとめられて並んでいるのは、同じツアーラベルつきの物ばかり。つまりラベルを目印に、ツアー専用バスのドライバーがツアー客のスーツケースを回収してくれていたのです。
 思えば、飛行機を降りてからそこまで、他の乗客よりも早く行動したとは言えない状況でしたから、待機中のドライバーが気をきかしてくれたのかもしれませんが....でも全ての荷物が出てしまっていたというわけではく、作業は進行中で、荷物が最初に出てくる位置に立って、ツアーラベルの荷物をピックアップしていたドライバーの様子からは、いつものことのように見えました。
 反対側で、わたしたちが待っていても、自分の荷物はいつまでたっても出てこない....不要なストレスに襲われる前に、ドライバーの『親切』に気がついてよかったです。

 荷物は回収されていることを伝えると、添乗員は集合場所を荷物のあるところ(反対側)に変えましたが、カートに乗せられた荷物は、バスに向って移動させられようかというところ。それを、数回押しとどめつつ...ツアー客全員がこ自分のスーツケースを確認しました。 まず始めに現地ドライバーと落ち合うべきじゃなかったのかなと感じさせられる一件でした。
 空港で合流したのは、ドライバーの他にもうひとり、日本語スルーガイドという肩書きの 現地在住のガイドでした。
 (不明の1組も、この辺りにいたらしく、いつの間にか見つかってました。)
 
 翌日のロワール古城観光に備えての宿泊場所ブロアまではバスで約2時間45分...の予定でしたが、いきなりの大渋滞に巻き込まれ、ブロア到着は21時をかなりすぎてからでした。
 空港でのロスタイムが1時間としても、20時半までには....という予定は大きくずれ込みましたが、交通事情に車窓の景色、当日のホテル、翌日の観光情報などを交えたガイドの話は、テンポもよく、車内では眠気を感じることの無い数時間でした。。

 小麦をはじめとする穀物畑地帯、ボース平野では、かつてあちらこちらで小麦をひいていた風車は役割を終え、景観からもほとんど姿を消したとのこと、車窓からは唯一見えるかもしれないという遠くの1基に目を凝らしました。逆にこれでもかと現れたのは、発電目的で建設された巨大風車、エオリアン(という名称があるそうです。)やっぱり、異様....。 
 
 日没は20時をすぎてからで、クッキリと輪郭を見せた太陽のオレンジ色が見事でした。
 その後は、左側に月を眺めながらの1時間あまり....。
 満月が近く、自分たちが観光する日が丁度モンサンミッシェルの大潮に当たるということを、わたしはこの時、ガイドの話で知りました。 


                             10/05/12 


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ツアー2日目 ロワール古城巡り、昼食後は一路モンサンミッシェルへ

 ツアー2日目、8時30分にホテルを出発した後、すぐ側のシャンボール城見学を皮切りに午前中はロワール渓谷の古城巡りでした。
 目玉観光のひとつなのだと思いますが、ロワールは前々回のパリ旅行時に日帰りツアーで観光済みなので、我家にとっては『少しもったいない時間(どうせなら他を....』と思う数時間でもありました。
 もちろん一度観たら二度は不要というほど観尽くしたわけでもありませんし、そもそもは季節が違うので、それなりに楽しみにはしていましたが、でも、お城は沢山あるのに、観るのはやっぱり.....、全く同じお城なんですよね。 パリ発のツアーでは異なる見学コースもある様子ですが、パックツアーで巡るなら代表格から...と言うのは当然といえば当然でしょうか。


 パンフレットに記載されていた観光予定のお城は3カ所、ブロア、シャンボール、シュノンソー、そのうち入場は1カ所、他は下車観光とのことで、我家では入場したことのないブロア城への興味が最も大きかったのですが、残念ながら入場したのは外壁修復工事中のシュノンソー城となりました。

 ロワール地区最大にして、地区に先立って世界遺産に指定されたシャンボール城は、ガイドによれば、内部はだだっ広いだけでさしたる見所も無いということでしたが、主人がどこかで(このへんの記憶が曖昧)読んだ情報では、見所の、ダヴィンチの設計といわれている2重螺旋階段が修復中だとか....。上る者と下りる者が顔を会わせることが無いという階段です。一昔前はな〜るほど!と感心しつつ、その階段を上って屋上テラスからの眺めを楽しんだものでしたが、そのあとで、上る時はこっち、下りるのはそっちからというのは暗黙の了解事項だったのか、それとも何かのぼり専用、下り専用とでは違いがほどこされていたのか.....当時そんな説明はなかったので、おそらくは同じ仕様....となれば、すれ違わない利点は後に付け足されただけかも、などと、ど〜でもいいと言われそうなことに悩んだわたしは、こんどは上ったのと同じ階段を下りてみようと考えていたので、入場観光の第二希望はシャンボール城だったのですけど(上りやすいけど下りにくい...なんてことを実感できたら面白かったはず。)内部の見所が多い上に外壁が幕張り状態にあるシュノンソー城には叶いませんでした。

 地元の子供達に先を越されたものの、観光客としては一番乗りだったわたしたちはシメントリーのシャンボール城の回りを半周、守りやすい場所に頑丈な城を建設するのが普通と思われる戦後の時期に、四方無防備なロケーションに建てられた美しい城の、“無駄な装飾”が織りなす偉容を観察しました。フランスが持てる国力をつぎ込んで造ったというシャンボール城は、たくさんの煙突や、その煙突にまでほどこされたされた様々な模様など、“不要な程の美しさ”によって富める国力を内外に印象づけたというのがガイドの説明でした。実態はともかく、無駄は余裕を象徴し、余裕は見るものを圧倒する美しさを発するいうことでしょうか。城を建てたフランソワ1世は、美意識にも優れた王様だったそうで....。
 

 実は、ツアー2日目のこの日からは車外では常時(自由時間以外)イアホンガイドを装着しての観光だったのですが、ガイドの案内を聞きやすいというメリットの他に、案内を受ける時間がたっぷりあると言うのも利点でした。
 観光する対象物の前に集まってから、「さて、これは...」というだけではなく、その場所に向うまでの間、車内ではマイクで、車外ではイヤホンガイドをとおして、わたしたちはこれから観るもの、観たものにまつわる情報を聞くことができました。
 イヤホンガイドの利用は以前にも何度かありましたが、歩いている間も話が聞けたのは今回が初めてでした。現地ガイドの知識は豊富で、話術も優れていて、実際に時間を取って観光した城はわずかでした(しかも前と同じ)けど、渓谷に点在する他の城も含めてのつながりを理解することが出来たと思います。
 
 ロワール側対岸の撮影ポイントから観ただけのブロア城(右上イメージ)は、オルレアン公(ルイ12世)の居城で、息子に恵まれなかったために後継者として呼び寄せたのが、後のフワンソワ1世。フランソワ1世が子供時代に家族と暮らしたのがアンボワーズ城。オルレアン公の長女クロードドフランスとフランソワ1世の間に生まれたアンリ2世が愛妾にプレゼントしたのが、川面にうかぶシュノンソー城。そして、アンリ2世の死後、王妃カトリーヌドメディチが愛妾ディアーヌドポアティエに、シュノンソー城との交換を強要したのが、夫が寄り付くこともなく寂しく過ごしたショーモン城(左下イメージ).....。

 即位前から続いていたイタリアの領土所有権争いに勝利したフランソワ1世が、遠征先で出会ったレオナルドダヴィンチをフランスに招聘したのは良く知られていることですが、時はミケランジェロやラファエロ全盛の頃、彼らよりも才能があるのに老いたレオナルドに仕事に依頼はなく、不満を抱えていたところへの、いはばおいしい話! ダヴィンチの才能を高く評価していたフランソワ1世は、幼くして父親を無くしていることも手伝ってか、ダヴィンチを我が父、我が師と敬愛、厚遇した.......というのがガイドの説明でした。

 史実として広く認知されていることでさえ、長い時の間には記録に変化が生じていた場合もあるくらいなのですから、“人の思い”に関してはただ推すばかり....。本当だったかどうかは確認する術はありません。でも、記録に人を絡めてできる物語は魅力的です。イタリアの天才がフランス国王に招かれたというだけよりも解りやすいし、それに、こういう言い方が適切かどうかは別として、職にあぶれた天才の心情にまで言及したガイドの話は、やっぱり面白かったです。
 また、シュノンソー城にまつわるエピソードで有名なのが、アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスと、愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエの確執ですが、王よりも20歳近くも年上の愛妾はフランスの有力貴族の家系で、王妃は単なる富豪の娘.....知りませんでした〜。ディアーヌはアンリ2世の母の侍女であり、その後に幼いアンリ2世(とその兄)の教育係でもあった、(ついでにアンリ2世の子供達の教育係も努めた)そうで、アンリ2世は母親のように慕った相手を思い続けて...即位後は公妾に迎えたというのですから、驚きました。

 そもそも、カトリーヌ・ド・メディシスは、とある戦いでカール5世の軍隊に捕まった時に身代金の調達に苦労したフランソワ1世が、これからはやっぱりお金も持っていなくては....と学んで(ガイドの表現)長男には身分のある嫁を、次男には財力のある嫁をという考えで選んだ嫁だそうで、急死した長男に代わって次男が王位を継ぐことになった時に、こんなことになるならちゃんとした貴族の娘をもらっておくべきだった....いあや〜、困った困った、とフランソワ1世は後悔なさったそうで、カトリーヌ王妃にすれば、随分な言われ方ですよね。
 王妃よりも愛妾の方が家柄が良く、重臣達も予定外に王妃となってしまったカトリーヌの出身には不足に思っているという状況で、王は愛妾に与えたシュノンソー城に入り浸り、それを知ってる重臣達が集まるのもシュノンソー城....う〜ん、そりゃ、王亡き後はディアーヌによほどの意地悪をしたくなるのもやむなし、などと、今回のシュノンソー見学では、これまでになくわたしは王妃の心情に感情移入してしまいました。
 以前のロワール観光では強い本妻に、まれな才媛振りをねたまれた愛妾という構図だったんですが、別の見方も多いにあり得そうですよね。
 ディアーヌが城から川の対岸に渡した橋を覆うようにカトリーヌ王妃が増築させた回廊や、城を挟んで反対側に造らせたという庭園(右下イメージ、左側がディアーヌの、右側がカトリーヌの庭園)、ディアーヌの寝室の真上に配置した王妃の寝室など、昔は女の憎悪は怖いわね〜などと言っていた気がしますが、実はちょっと、哀しい話にも思えますね。。  

 無理矢理交換させられたショーモン城には馴染まず、ほとんど住むことなく自分の城に戻って行ったというディアーヌも、シュノンソー城主時代からちゃんと“老後の住まい”を計画的に造っていたと聞けば、それほどお気の毒な余生でもなかったのかも...と、いままでとは印象も代わりました。
 どっちの印象が本当に近いのかは別として、朝からずっとガイドが語ってくれた物語は、「そうだったのか...。」と納得させられる内容で、観光したことのあるロワールよりも本当は別のところを観たいけど、ツアーだから仕方が無いと思ったのは間違いだったと感じ入りました。
 実際にはパリからの日帰りツアーよりも観光時間も観光場所もすくなかったんですが、得られた情報が比べ物にならないくらいに多くて、充足感のある観光だったのです。

 昼食は、石切り場跡の洞窟レストランで。
 右イメージの岩山から突き出た煙突がレストランの厨房....になるのかな? くりぬかれた岩山の内部が店内です。
 料理は4人前が一つに盛られてきたものを各自で取り分けるスタイルでした。石釜で焼かれたパン(おいしかった)、葉っぱてんこ盛りのサラダ(朝食に生野菜がなかったので、嬉しかった。パンは余ってましたが、サラダは人気で、空っぽになりました。)メインは鳥肉とソーセージ。付け合せのポテトと茸のソテーはやはり4人前単位ででてきたので、食べられる量だけ取りましたが、これもおいしかったです。デザートは地方色を反映してかリンゴのタルト(とってもおいしかった!)。
 ただねえ、デザート用のカトラリーはなぜか、スプーンひとつではありませんか。ガイドからは最初にスプーンはデザート用です!という案内があったので、アイスクリームの類を予想してたんですが、タルトなんですよね。どうしてスプーン?と思ったのはわたしだけではなくて、お互いに顔を見合わせ、首をかしげつつ、タルト(しかもリンゴのタルト)をスプーンで食べる不自由さと格闘しました。
 
 食後はモンサンミッシェルを目指して、4時間を越えるバス移動です。
 車中、前半はお昼寝タイム。後半は翌日朝からの観光に備えて、モンサンミッシェルが造られる切っ掛けとなった大天使ミカエルのお告げのエピソードや、観光に際しての注意事項に加えて、ジャンヌ・ダルクの物語も始まりました。

 また、初めて参加者全員が一緒にとるお昼ご飯、洞窟レストランに入る前に、フランスのレストランのトイレ事情とトイレ利用のマナーに付いてガイドからアドヴァイスが有りましたが、(トイレ待ちで並ぶな、食後にトイレに行くな等、詳細は別ページで)そのアドヴァイスに対しての不満が、翌日以降、まだ親しいとは言えない参加者同士、共通の話題となって、会話の助けになりました。


                                               
                                   10/06/03 


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