コロナ渦影響 降る粉払えず!
緊急事態で環境激変....継続中
    

2021年4月下旬 父緊急入院 母緊急入所 

 何度目かの緊急事態宣言発出に遡ること2週間ほど前、父から、母の日旅行(帰省と温泉旅館宿泊)の中止提案の電話がありました。腰が痛くなったというのが主な理由だったので、まだ一ヶ月も先の話だからとこたえましたが、コロナ禍で発令中の緊急事態宣言が連休明け以降も延長されそうな気配が漂う中、日程の見直しをすべきか否かと悩み始めていたこともあって、体調も環境も整うまで旅行は延長することに...。
 昨年の同時期も全く同じ状況(緊急事態宣言延長)で、予定の変更は行わずに動きましたが、それから1年、対策強化に比例して、楽しめる環境は壊されていくわけで、こんな時期に無理に動かなくてもという結論でした。
 
 ただ、父の腰痛みが、勧められたり、誘われたりで、マッサージなどを受けても改善しないので整形外科を受信したところ、骨が腐っているようなことをいわれたと...。 どうやら腰椎に圧迫骨折があったようでした。 
  が、最近のものではないとの診断で、骨折自体に処置はなし、痛みをとる目的で、注射、飲み薬を3種処方されたということでした。骨折が以前のものだとして、今の痛みの直接の原因になりうるのか、父も確認せず、医師からの説明もなされなかったようなのが気になりましたが、薬を飲み初めてすぐに、人相が変わるほど顔が腫れたというではありませんか。
 薬を中止して、医師に相談を!との状況...ですよね。 
  わたしからは血液の検査をしてもらうようにも勧めました。検査の結果は数日後、医師は薬一種のみ服用を中止、残る2種は継続するようにとの判断でしたが、翌日朝、今度は真っ黒い便が出たというので、血液検査の結果が出るまで(数日)薬はやめて様子を診た方がいいのではという話になりました。薬を服用したからといって、腰の痛みにさほどの変化もない以上、薬のリスクの方が懸念されました。2021年4月27日の朝のことです。

 その後、11時すぎに、 アレルギーの薬の補充で通院中のわたしの携帯に複数回の不在着信(クリニックで電源オフにしていたので)留守電には、父が緊急搬送で入院することになったとの連絡がありました。
 従兄弟は帰省を促すメッセージでしたが、 デイサービス施設に関わっている従姉は、大阪から帰省してもできることはない、病院の医師も合わないだろうし、病院への出入りもできないことに加えて、(大阪在住の娘と会うと)母が(ショートステイ等の)受け入れを断られるかもしれないから、帰省は待ったほうがいいとのアドヴァイス。わたしは当面大阪にて待機。
 父には、従兄弟夫婦が付き添ってくれましたが、入院手続き完了後は、在住地には関係なく部外者の入院病棟内立ち入り不可で、着替えなどの受け渡しも、(患者と接点のない)荷物受け渡し担当のスタッフにあづけたり、受け取ったりで、様子がわからない状態が続いていたようです。

 父は27日、わたしと話したあとで、整形外科からの呼び出しに応じて、自分で車を運転して出向いたと言います。で、数日後と言われていた血液検査の結果の、腎臓に関わる数値が異常、一旦自宅に戻る余地なく、総合病院に紹介状付きで即、入院。外科ではなく内科での入院で、消化器官からの出血、貧血症状あり、胃潰瘍、胃内部に多数のポリープ等々、3週間は(入院が)必要との大事になりました。
  大事ですけど、医師に任せるより以上の最善はありません。

 それよりもさし迫ったの問題は、母でした。
 物忘れがひどく、とくに直近の事象が覚えられない 母は、入院中の父のサポートどころか、父留守中の自宅で一人暮らしは無理!というのが、母本人以外の周りの一致した意見でした。 
 母は、自分のことは自分で行えてはいますが、リモコンでTVを消し、部屋の電気を消そうと持ち直したリモコンが、別のものだったりすると「なんだ、間違えた。」と修正ができない..。電気が消えないことがおかしいとは思うので、そういう時には父を呼びに来る...2階にいるはずの父が家の中のどこにもいなかったら「あ、入院してたんだ。」ではなく、外に探しに出かねないのが危ういわけです。
 父を呼び出した整形外科から、母が利用していたデイサービスに連絡が入り、本来は午後利用の デイサービスのスタッフが、急遽母を迎えに来てくれ、昼食もサービスセンターで提供されるなどのサポートが、助かりました。 それでも、待った無なしで、夜はくる...。

 母の担当のケアマネージャーが 受け入れ可能な保健施設を探してくれ、入所の手続きを従姉とケアマネで勧めてくれました。コロナのせいで病院に面会にいけないことはわかるけど、何かあった時には家にいないと!といういたってま真っ当な主張を繰り返す母を、ケアマネが、父から何かの時にはと頼まれていたので、自分の顔を立てると思って安全なところで父を待って欲しいと説得してくれたと聞きました。
 それで、とりあえずは父の回復待ち...落ち着くはずでしたが、母が、落ち着きません〜。
 
 朝出かけていったきりの父はそのまま戻らず、 デイサービスからの迎えは常より早く、そこから連れて行かれた4人部屋(個室なし)、知らない人ばかりの場所で落ち着きようもないでしょうけど、自分が置かれた状況が理解できずに、スタッフに尋ね続けたそうで...夜に従姉が着替えを持っていった時に、スタッフが困惑してたと言います。母にしてみれば、なぜ?父が入院中なら、家に戻っておかなくちゃのループに陥るわけですが、そこに付き合わされるスタッフは、母にだけ付き添っているわけにもいかず、従姉には、もしかしたらウチでは無理かもという懸念が示されたと言います。無理ですから、お帰りくださいとと、言われる確率はわかりませんが、従姉自身も実際に返された事例も知っているため、聞かなかったことにはできず、夜遅くに、こちらに状況の連絡がありました。
 

 当座は、なんとかなっても、 このまま長く...は難しい。

 3週間後、 父が順調に治療を終えたとしても、日常性格への支障は必ずついてくる...紛れもない高齢者ゆえ、本気の回復が望めるかも危ういとなれば、長期戦です。というより、元の状態(自宅でのふたり暮らし)は現実的ではありませんから、斯くなる上は、まず母には大阪に来てもらおうということになりました。何かの時に、間に合う距離に、ということで、翌朝を待って、我が家の側の有料施設に連絡をとりました。
 義母が7年間お世話になった施設です。
 HPチェックでは空室わずかだったものの、あいにく満室になったばかり、...。ただ、希望の施設が満室の場合、系列のた施設で希望施設の空室を待つという待機入所システムの利用を案内され、午後に他施設の担当者から連絡を受けました。先に連絡をとった近くの施設から事情はつたわっていて、受け入れはできるとのこと、で、いつ頃から?という話になって、今日迎えにいって明日連れて戻るので、できれば明後日からというと、さすがに驚かれた様子でした。
 いえね、その間にも、父の状態の変化も、ありえない話でもないので、まず先に、母の居場所の確保が急務だったんです。初めて言葉を交わす担当者はホーム長とも連絡をとり、なんとか対応できるようにするといってくださり、とりあえず30日10時に面談の予定が組まれました。その後にわたしたちは、コロナ禍ゆえに帰省を取りやめた四国、わたしの実家にに向けて出発。
 夜遅くの到着だったので、母はもう一泊保健施設でお願いし、従姉が翌29日10時頃に迎えに行く段取りで、母の帰宅までに、母の着替え等当面必要なものをパッキング。宅急便の集荷は29日午前中で依頼を済ませました。
 
 29日午前中、従姉の車で自宅に戻ってきた母は、娘夫婦がいることにびっくりした様子でしたが、一昨日からの緊急事態に対しての悲惨さは見受けられませんでした。帰り支度ばかりをしていたという保健施設に対しても不満を口にすることはありませんでした。忘れられないほど、イヤな記憶にならなくてよかったです。 父の入院が長引きそうなこと、近くにいる方が安心だからと大阪に行くこをつたえると、え〜?という反応でしたが、 格別の拒否反応もありませんでした。
 とはいえ、父の入院、病院からの連絡があった時のために自分は家にいなくてはというループは繰り返されるので、大変でした。母の言い分はごもっとも!なんですが、家に一人でいられるかいられないかの前提が真逆な訳ですから、説得するのもされるのも、そりゃ、容易ならざる課題でした。
 しかも課題のクリアは、一瞬で、長持ちしないし、わずか1日でわたしは、いわゆる「疲労困憊』を実感しました。
  ただ、ありがたいことには、待機システムでお世話になる施設では、簡単な面談の日、契約はあとでと、母を部屋に通していただけました。ベッド、ローチェスト、テレビも整えられた個室で、本当に着替えだけ持参の『待機入所』でした。空室の問い合わせから待機システム利用で入所まで、2日。
  よく対応していただけたと、思い返すたび、ありがたみはますばかりです。

 PCR検査で陰性が確認された後、4日間は自室での生活がもとめられ、食事もスタッフが部屋届けるので、 しばらくは部屋から出ないようにというお願いに、母は即了解でしたが、「...出てきそう..。」というわたしに、スタッフは「間違い無く、でてこられますね。」強く同意!でした。
 実際、午後に契約のために出直したところ、母は自室から3回『お出かけ』したそうです。

 スタッフも母の部屋の前で待機している訳ではありませんから、声かけも誘導も間に合わずエレベータで他のフロアへと...。で、父が体調を崩して入院中だから、家に戻っていなければというのが、繰り返される『お出かけ』の理由だそうで、おまけにスタッフには「あなたが私の立場だったらどう思う?」と、詰めよったとか...物忘れは酷くても弁はたつんですね。今回の状況では母の言動は至極当たり前だからとのスタッフの受け止め姿勢には、心底、助けられました。
 3日後だったでしょうか、ケアマネから、自室での隔離をといて、他の方との交流が始まると目に見えて落ち着いてきたので、大丈夫との電話がありました。4日間の隔離期間を前倒しして 、行動制限が解かれた様子( もう、出てこられるので...とのスタッフ言)で...結果オーライながら、完全隔離無理です!だったのでしょう。手こずらせたのだろうなと察せられ、こちらの気持ちが落ち着くのは、少し先の話...でしたっけね。
 それから約1ヶ月 、面会も電話連絡も無くすぎました。
 当時は事前に連絡すれば15分の面会は可能でしたが、 短い面会が母の言動にどう影響するかが....良きサポートになるというより、思い起こして、家に戻っておかなくてはのループが再燃するリスクもありましたから、ケアマネとも話をして、母が落ち着きつつある状況では、面会等は控えての様子見になりました。
 のちの請求内訳では、屋上庭園ピクニックランチの参加費用などもあって(コロナ禍で外出レクが中止中)唐突に、家族と離れての一人、知らない場所での他人との共同生に割合に早くに馴染んでいった様子が伺えます。
 
 父の退院後の生活に関して、病院のソーシャルワーカーから問い合わせを受けたのが、母の入所契約手続き中の30日午後でした。

 退院後、これまでのように父が母のサポートをしながらのふたり暮らしは無理だからと、ソーシャルワーカーが母の担当ケアマネに母の施設利用を促す類の連絡があったようです。「あ、すでに大坂の方で。」と自分が言うわけにはいかないので、母の状況を直接私から話してもらえればとの連絡がケアマネからあり、その後、ソーシャルワーカーからコンタクトがありました。
 母が、我が家近くの有料介護施設の利用を念頭に、手続きをはじめていること、父は、可能なら退院後は大坂での同居を(わたしたちは)考えていること等をこちらから説明し、先方からはわたしが仕事をしているのか、自宅にスペースの余裕はあるかなど、父の受け入れ環境に関して具体的なことを尋ねられました。

 3週間は入院...の予定のはずなのに、 27日からわずか4日目に退院後の話で、わたしは少し焦りました。

                                    21/09/08 

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2021年5月下旬 父退院で大坂へ移動 母施設を移動

 父の退院が5月21日に決まりました。

 連休明けにも...という情報は、勘違いと早とちりと希望的観測がまぜこぜになっての「誰が言った?」という話で、実際には17日以降、(当初の診断の通り、3週間程度で入院の必要はなくなったということ...)こちらの受け入れ準備など担当看護師から『都合』の問い合わせがあったので、18日に予定が入っていたので、退院は21日で調整しました。
 父 PCの発送、着替えと日常使用品の発送、 母の入所予定施設宛てに自宅内のテレビを発送(チェストやソファは部屋に合わせて購入しましたが、テレビは自宅にあるうちの一台を...。買うより、送料の方が安いので..。)など、
父の退院までに済ませておきたい作業のため、わたしは19日に帰省。

 PC、テレビの集荷依頼は、20日に、指定しました。おそらくはもう使うことはないだろう車の譲渡手続きは21日(退院日)の午後、父の身のまわり品(着替え等)の発送は翌22日で、23日午前中に大阪へのスケジュールでした。退院後はわずかに中1日...できることは限定的でしたが、数日余裕があれば他に何ができるかといえば..(.父が、なんとか自力で歩けるならよしとしなくてはの状態では)できないんですよね。
 1日過ごす時間が増えれば、食事に関わるゴミも増えるし(22日の夕方にいとこがケイトラでゴミを取りにきてくれたので、持ち帰りゴミは23日朝の朝食用パンの袋やカットフルーツのケース程度)大阪からきた娘は出歩くことも憚られる雰囲気もあって、とにもかくにも、(大阪へ)GO!
  郵便の転送届けはすでに終わってるし、必要なことは一旦落ち着いてから、のノリで動きました。

 概ね予定通りにコトは運びましたが、予定外だったのが、銀行の引き出し手続きでした。
 検査の結果を聞きに行ってそのまま転送入院となった父は、 銀行の通帳や印鑑はもちろん、キャッシュカードも自宅に置いたままだったので、わたしが大阪に持ち帰っていたのですが、我が家の行動圏内に支店のない地方銀行。 
  父が現金も少しは持っておかなくちゃと言うので、20日、帰省時にわたしが引き出しておくことになりました。
  駅にも設置されていたATMに気づかず、少々の距離を歩いて支店内のATMに父のカードを挿入..すると、暗証番号をどうぞのはずが、指紋認証を行うという、まさかの段取りです。暗証番号での操作選択ができないので、手続きをキャンセル。何か見落としたかと(たまたま指紋認証専用機にとりついたかとか...)、別の操作機でこころみるも要求される手順は同じなので、近くのスタッフにたずねました。入院中の父に頼まれて引き出しに来たのですが(本当のことです!)暗証番号で手続きできる操作機はありませんかと...。
 スタッフは「え?」っという様子で、キャッシュカードを入れてみてもらえますか?と...。
 よいけどね(カード自体無効になったりしないでしょうね)と、3回目 のチャレンジも結果は同じです。先へ進めません。するとしばらく悩んでいたスタッフが閃きました。支店な内のATMはリニューアルしたばかりで新機種なので、以前の機種なら暗証番号で操作ができるはすだから(古い機種が設置されている箇所を)探してくれたのでした。う〜ん、親切な対応には感謝ですが、これ、機械の新旧の問題じゃなくてて、指紋認証カードで暗証番号操作できませんというだけ、本人以外(家族とか)が使用する場合は別に暗証番号で操作するカードが発行されている(我が家が口座を持っている地方銀行はこのパターン。かつ、本人カードでも暗証番号対応の専用機の設置があります。指紋がスンナリ認証されないことが多くて、もっぱら暗証番号専用機を利用しています。)とわかったのは、のちのこと。この時はスタッフのアドバイスのままに複数箇所をまわり、結果、全て「指紋認証を行います」で撃沈。引き出し手続き不可でした。
 隣の他行のATMで、手数料を負担で現金は手にしましたが、なんという不自由さ!父本人が動かないことには、キャッシュカードも意味をなさないという...。
 それよりなにより、1時間あまりの間に、同じキャッシュカードが複数箇所で使われ、セキュリティがかかって、引き出しできずの図って、これ、わたし、紛れもなく不審者じゃありませんか。わたしに今少し根性があって、 手数料なしでの引き出しに挑戦し続けていたら、『お話を聞かれるハメ』になっていたかも...いえ、本人の指紋がなければ先へ進まない状況ゆえ、お話を聞く手間もはぶけて、被害も防げるということなんでしょうけど、利用者としてはよかったとはいいにくい。
 大阪ではキャッシュカードも使えない (他行のATMではお取り扱い不可か指紋認証バージョンで、父の指なしではど〜にもなりません。)通帳記入もできないしで、先々の管理ができない口座...解約までの長〜い道のりが始まるのは少しあとの話です。

 退院二日目で、香川〜大阪まで、思えばよく移動できたものですが、新大阪からは自宅までタクシーを利用しました。確実に座ることができる保証のない在来線の利用は、この時に限らず今も危うさがあります。
 室内でも父の部屋からリビングまで、 しばらくは杖頼りでした。
 
 一方、腰痛、ひざ痛で整形外科と縁が切れることのなかった母は、、なぜか元気... 。
 希望の施設に空室ができて、6月2日に、施設間の移動が決められました。知らないスタッフが迎えに行っても戸惑うだろうからと、当日は私が同行しました。
 原則(コロナ禍 で)面会不可ながらも、、入居当初は例外だからと、父は主人と母の部屋で待機(実際にはわたしたちの方が予定時間よりの早く到着して、ロビーで父と主人を待つことに... ) およそ一ヶ月、せっかく馴染んだ場所から、また知らない場所へ移動で、母の混乱も察せられれるところで、待機入所していたスタッフにもこのままここで過ごす選択も示唆されましたが、我が家からの近さが...悩む余地のない利便性で、母には動いてもらいました。
 PCR等の検査は待機施設でおわっていて、施設間に感染者んもいない状況だったため、引越し後の施設では、自室隔離期間はなく、初日から 館内の行動制限なくむかえられたおかげか、以外にスンナリ、母は新しい部屋におさまりました。 
 ケアマネも、電話は(母に落ち着いてもらうために)かけると予想されてましたが、その日、私たちのサポート(直接行けないので、声だけのサポート)を要するコンタクトもなく、翌日、こちらから様子を問い合わせました。帰る(自宅に)つもりではいるようだけど、帰ろうとする行動はなく、スタッフの声掛けで落ち着いているとのことでしたっけ。

 その後は、スロアのスタッフが母の携帯からこちらに電話をかけてくれて、会話で様子を察する程度。
  制限つきながら、母と直接会うことができるようになるのは、それから数週間先のことでした。

                                    21/11/13 

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2021年6月中旬 父母の住所を、遡って変更する(父、介護サービス利用開始)

  父の介護認定結果が届きました。
 4月下旬、腰が痛いと言い出した頃に、従姉妹(厳密にはいとこの配偶者)が、強く勧めて手続きを開始した介護認定申請の結果で、面談等の調査は入院中、区分結果は要支援2でした。 
 
 我が家(マンション)での同居が始まって3週間ほど、 父は外では杖を使用、受診時の病院内では車椅子も使っていましたが、室内での生活には、スローペースながらも杖に頼ることも無くなっていた頃に届いた介護認定結果です。日常生活の中で筋力、体力の回復が不可能ではないかもしれませんが、外出で体を動かす機会を活かした方がいいだろうと、デイサービスの利用を...と、すると、住民票を居住地に移すことが必要になりました。
 
 父母は若返る訳ではないし、 また自宅で、父の入院前の生活に戻る時がくるとは考えられないのが現実ですが、とりあえず、しばらくは様子をみて...というのも本音。すぐに住所を移す予定はなかったので(急を要しないことは落ち着いてからにせざるを得ない状況)、落ち着くまもなく、バタつきました。
 転出届は郵送で、転入に必要な証明書も郵便で返送してもらいました。返信用封筒に切手を貼って、こちらの住所を書いて...でも、返送されてきた封筒は、厚みがあって、不足分10円の請求書付きでした。 指定された額面の切手を貼ったのですけど、封筒には転出証明の他に、未 請求の証明書も同封されていて、 重量オーバーになっちゃったんですね。いづれも転入先で提出が求められる証明書(介護認定の区分証明や医療費の自己負担割合証明の類)で、本来は転出時に返却する保険証の内容を証明する書類だったようです。 自分たちの、転勤に伴う引越しでは必要なかった手続きで気がつきませんでしたが、、保険証、手元にあるし(転入手続き後に、転出先に返送しました。)現物を見せればOKという話ではなかったんですね。
 必要だからと転出先で気をきかせて発行、送付してくれた証明書は、要申請なのでと、申請書と返信用封筒も同封されていて、10円不足の封筒はふくらんでましたっけ。重量オーバー を疑うのがふつう...とは言いますまい。
 気配りサポートのおかげで、市役所での転入に関わる手続きは一度で済ませることができました。
 
 介護の区分は当面は旧住所での認定がひきつがれ、担当のケアマネが決まったのちは、7月は利用(施設)の選択月として、見学や、体験利用に当てました。要支援では月単位利用になる(リハビリに重点をおいたデイケアサービスの場合。デイサービスは日割り利用が可能?)とか、デイケアは理学療法士常駐で、デイサービスには常駐義務はないなど、『どこ似たようなもの』ではないことを知らされました。 父本人が気に入ったところと、わたしやケアマネが良さそうと感じたところが一致したので、8月から週2回の利用を決めました。
 デイケア利用の場合は、契約云々の他に担当医師の意見書が必要だったり、こういう時期なので、コロナウィルス罹患の有無の検査が必要だったり、サービス利用のスタートライン到達までそれなりに手間も時間もかかりました。
 そういえば...と、NHKの受信契約に思い至ったのは、その辺りのことが落ち着いてからでした。
 住民票を移して、住んではいない旧住所で、受信料を払う必要はないだろうと、解約目的で問い合わせセンタに電話をかけました。予定外の転出だったので、客番が手元にないことも説明して、どうすればいいかアドバイスを期待したのですが、家があって、家の中にテレビをおいたままの状況では解約はできないとの解答に驚きました。 住民票の提出くらいは必要かとは思ってましたが、無人の家の中のテレビの処分が必要と言われて、わかりましたとはいかないでしょう?
 処分の証明として、リサイクル券か、 譲渡先の住所氏名電話番号の提示が必要との一点張りで、ラチがあきません。テレビを処分した証明って、いえ、一台は買い換えたばかりだし、処分を強要される筋筋合いもない。住んでいなきゃ視聴もできないんですからというと、それはお客様の(こちらの)事情だからという。そう!こちらの事情で受診契約を解除したいという話ですが、責任者に代わるように促すと、折り返し連絡をするので住所、氏名、電話番号を聞かれました。なせ、住所まで提供しなくちゃならないのか不明ですが...もう、電話番号も教えたくない気分で、NHKと縁がきれないなら、受信料引き落としの口座を解約することにするとつたえて、わたしから電話を切りました。
 俗にいうところにの、『キレちゃった』状態ですね。

 指紋認証のキャッシュカードも不自由だし、 通帳記入もままならないし、落ち着いたら、どうするか考えなくちゃと言ってはいた父母の地方銀行講口座を、NHKの横暴ゆえ、できるだけ早く解約しなくちゃということになりました。
 とはいえ、年金が振り込まれ、公共料金、クレジットカードの利用額等ががひきおとされテイル口座なので、ひと手間、ふた手間は避けられません。基本はゆうちょ銀行にへ移行がはやいと、郵便局に出向いて、住所変更からはじめたところ、問題発生。無いと思っていたのに、母も総合口座を持っている(同住所、同姓同名で口座記録がある)に違いないということで、新規に口座が開設できないというのです。まあ、定額口座のみというのもおかしな話で、その昔に総合口座もつくったのでしょうけど...記号番号(こちらは)不明。手順としては口座照会、通帳再発行、届出印変更手続きとなり、母本人が窓口に来られない場合は電話で本人の意思確認が行われるというのですが、その電話番は登録先電話番号...つまり、我が家です。我が家に母はいないわけで、 もう、ややこしい。
 そこで、我が家の最寄りの駅前の銀行で、父母それぞれの口座を作ってもらいました。(引越しに伴い年金受け取りようの口座をというと、割とすんなり開設できました。父同行、母不在ですが、父と母の同居確認で、母の口座開設は父が代行OK)

 NHK以外の各社に、引き落とし、受け取り口座の変更手続きを進めました。
 ただ、次回年金の支給は8月。新口座への入金が確認されるまでは、既存口座の解約はしないようにとの注意があり、『NHK受信料引き落とし口座』の解約はほぼ2ヶ月先送りとなりました。
 (NHK受診契約解約トラブルについては、後日談あり。後述)

                                  22/01/18 

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2021年7月〜12月 コロナ禍中行動制限一進一退 ( 母環境に順応 父入院繰り返し)

 7月になって、介護施設の面会規制が緩和されました。

 緊急事態宣言からまんえん防止法 なんたら.....コロナ感染対策に関わる政府発出の宣言が変わることで、わたしたちの行動規制もみなおされるんですね。
 原則面会禁止から、予約制(他の面会者と一緒にならない為) で、週に一回、3名まで、30分程度、ロビーフロアで、1メートル以上の距離保ち、マスク着用で(当然飲食禁止)との条件付きでしたが、前進、改善には違いありません。
  夏場で、車の温度が上がりすぎると父の体調への影響が怖いからと、主人はエアコンつけっぱなしの車中待機でしたが、3週目には、父も帰りは歩いてみようかと言い出し、翌週は往復とも歩いての面会に挑戦しました。
 このまま体力回復して、コロナ禍も収まって、買い物やお昼ご飯などにも母と一緒に出歩けるようになれば(介護施設は通常外出制限はありません)いいねと言ってたら、8月になって、再びの緊急事態宣言発出で状況は後退。
 面会は原則禁止に逆戻りでした。

 気分が落ち込む事態ですが、それでも何度か直接に顔を見て話ができたことで、 父も気持ちが落ち着いた様子でした。いわゆる自分が体調を崩したせいで、母の生活環境を変えてしまった後ろめたさ...のようなものは確かにかかえていて、いいところに入ることができてよかったとはいえ、自宅で暮らせなくなる(人の世話になって暮らす)のは世の中的には『気の毒』な話で、かわいそうな印象が付き纏うものです。
 繰り返し母の様子を見ることで、かわいそうではないと、本心で気持ちに区切りがついたのだと思います。
 面会禁止期間になっても、近くにいるし、 そのうちコロナが収まったらまた行けばいいしのスタンスで、前向きでした。
 加えて、ちょうど、週2回のデイケアサービスの利用が始まったところで、変化した生活環境への対応に気持ちが傾いていた頃だったのだと感じます。

 リハビリ重視のデイケアサービスでは、(コロナ禍故?)他者と積極的な交流を促すプログラムはなく、理学療法士による個別リハや、マシン使用のプログラム、スタッフ指導でのみんなで体操などの他は、いわゆる『自習』で、過ごしやすかった様子です。スタッフの声かけや関わりは積極的なようすで、興味のありそうな素材(諺並べ替えクイズとか、写経用紙とか)の提供も多くありました。
 秋には、冬物を取りがてら、実家の様子も見にいく予定で、もう少し(リハビリで)体力が戻ってくれば、父も同行できそうな気がすると、前むきでした。
 が、9月に入って、足のむくみが目につき始めました。
 慢性腎不全だし、筋力も落ちているし、むくみはかなり以前からの自覚症状で、一晩寝たらマシになったり、いつの間にかマシになったりで、父本人は、よくあることと気に止めていませんでしたが、日毎に膨らむ足を懸念した理学療法士から、受信の薦めがあったのが、腎臓内科の受診予約日の2週間ほど前でした。予定を前倒しするほどのことでもないと思ってたら、今度は腹痛もないのに下痢が止まらないというわけです。
 処方されている薬も多いので、一応飲み合わせを病院に確認して、市販の下痢止めを服用したものの、念のために10月中旬に内科を受診したところ(下痢症状は一旦収まっている状態)ひどい脱水と、クレアチニン数値がパニック値と判明。
 外来の内科医師からは通院で2時間の点滴を4日間、5日目に腎臓内科(受診予約日)で、見てもらうようにとの指示でしたが、わたしたちは知らないうちに翌日に腎臓内科の予約がいれられていたり、4日目以降も点滴処理は続けられることになってたりと、受診翌日には、聞いてないんですけど...の段取りに看護師も一緒になってとまどいました。今日腎臓内科 を受診する話にはなってなかったもんね...という具合。
  どうやら、内科医は後になって、看護師も知らないうちに、やっぱり受診は早い方がいい!と、予約処理をしたらしいとの(看護師の)推測でした。
 ただ、腎臓内科の医師は 、もともと高かったクレアチニン値が少し高くなったという話で、金曜日の受診予定を火曜日に前倒しするほどの緊急性はないから(予定通り金曜日受診で)問題はないとの判断だったので、脱水処置の点滴に通いましたが、通院での負担で、父の消耗がひどくなってきていたので、腎臓内科受信日当日に、入院となりました。
 入院しても処置は変わらないとの話でしたが、通院の負担はなくなりますし、外来での点滴は水分補給だけに対して入院となるとまあ、水分以外の補給も可能と言うことで、ベッドに空きがあった整形外科病棟に入院です。
 コロナの検査や必要書類の提出やらで決まってから病棟の看護師のお迎えまでは2時間近くかかったでしょうか。
 その間に父が空腹を訴えだし、病室に案内されて後、お昼ご飯が出ると聞いて(父が)よかったと言ったと言う話を看護師からきかされて、笑うに笑えない心境(主人は笑った)でした。日夜からほとんど食べていないので、空腹は当たり前とはいえ、入院決定と同時に食欲がもどるかな〜と...。
 (食欲あるし)割としっかりしているので、(入院は)そんなに長引かないんじゃないかとの看護師のみたてをも、内心では『甘い!』(食欲全く亡くなってたし、フラフラだったし)と思って聞いたものでしたが、週明けには退院の話が出て、正直戸惑いました。ところが(コロナ感染対策中でしたが)担当医の許可だあって様子を見に病室には立ち寄ると....そりゃ、退院の話も出るねと言うくらいに、父は戻ってました。入院しての四六時中の点滴の効果は的面と言う感じ。
 1週間ほどはそれでも経過観察で、翌週に退院。
 11月からデイケアサービスの利用を再開し、大阪の支店に父も同行して、実家で長く利用していた銀行口座の解約手続きも完了しました。
 残念ながらNHKの受信料は10月下旬に1年分引き落とされた後でした。(後日談あり)

 腎臓、循環器内科の定期受信も再開し、父の体調も落ち着いた様子だったので、11月中旬に、わたしたちは空き家状態の実家の様子見に2泊3日で帰省しました。流石に父は、一緒にと言えるほど元気ではないので、留守番で、その間は安否確認もかねて訪問ケアサポートを利用しました。
 1日目、は特に問題はなく、父からは自宅内の**の部屋の**にあるガラスの文鎮とカートリッジインク全部と、篆書辞典と...等々、持ち帰り(発送)の要請も届きました。
 が、翌日はケアスタッフから腰痛がひどい様子が気になるとの連絡があり、日中に父本人からも話は聞いていたので、帰宅したら整形外科の予約を入れるつもりでいました。
 ところが実際には予約を待っていられる状況でjはなくなって、帰宅後1時間後には119番コール。
 救急車で運ばれた父は、新たな圧迫骨折発症の診断で、2週間振りにまた同じ整形外科病棟に入院となりました。
 圧迫骨折は、治るまで約3ヶ月。 骨折が治った時に、歩けなくなっていては元もこもないとのことで、リハビリに特化した病院にうつっての、リハビリしながらの回復を待つ数ヶ月がスタートしました。

 腰の痛みも徐々にマシになり、骨折が治れば、痛みもなくなる...と言う新たな圧迫骨折発症で、小さな疑問がより大きくなってきました。
 そもそも、遡ること数ヶ月前、父の急な入院のきっかけは腰の痛みでした。
 腰の痛み自体に特に処置はなされず、貧血や内臓のダメージに対してケアが行われたようですが、そのダメージの原因は、腰の痛みにをとるための薬...(薬害)だった(かもしれない)と言うところで落ち着いてたのですが、知らないうちに発生して、かつ治ってしまっていると言う圧迫骨折が腰痛の原因...とされる一方、現在進行形の圧迫骨折は、 日にち療養で治る...ということが『謎』でした。
 骨折発症の時期や箇所やまた、度合いによって、自覚症状も予後も違うものだろうからの理解でいいんだろうか?と、モヤモヤとした謎は広がりました。
  そうだったのか謎解きは、年明けまもなく。
 12月27日の面会時には、腰の痛みもずいぶんやわらいで、そろそろ(室内なら)杖なしで歩蹴るかも..と話していた父が、数日後に全身にむくみが発生。
 年明けそうそう、リハビリセンターの主治医から、別の病気に関して、懸念の電話を受けることになりました。
 

                                     22/08/01 

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2022年 12月 NHK受信解約にまつわるエピソード
 
 12月、唐突にNHK高松のスタッフから我が家にいるはずの父に電話がありました。

 父宛に送付した書類について、実家を尋ねたところ住んでいない様子だったので、と、住民票から転出先の我が家の電話番号にたどり着いて、連絡してきたという説明でした。
 受信料は10月に1年分引き落とされているので、何かの連絡(引き落としができないなどの督促状の類)は、23年10月以降と予想してましたが... 何のきっかけで動かれたのかハッキリしません。(口座の解約で、銀行からNHKに連絡が入ったのかもしれませんが。)

 父は入院中で、電話には出られませんでしたから、わたしが話を聞きました...というか、こちらから転出の連絡した時には、 空き家にテレビがないことの証明がないと受信契約の解約不可の一点張りだったので、引き落とし口座を解約したという不愉快な顛末をハッキリとつたえました。(その気になれば、転居先の電話番号まで調べられる事実を前に、ふたたび、腹がたちました。)連絡してきたスタッフは、その場、電話で『お引っ越しのため解約の手続き』をして、1月以降の受信料返金の手配をするとのことで、(遡っての解約ができないので...と言われました)実際にその後に指定の口座に返金はありました。
 が、それで、お手数かけましたとか、ありがとうございましたとかの、好意的な感情の自覚はわたしにはありませんでした。 できるだけ、穏やかに(と、がんばりました。)そもそも、こちらが申し出た時点で、解約できないとされた理由を尋ねたところ、担当したスタッフの認識不足との回答でした。


2022年1月〜2月 父血液専門内科に転院 (母 居室での床座り事件) 

 むくみは常のこと、問題の腰の痛みはやわらいで、骨折の治癒も順調な様子の中で、主治医からの電話 は年明け早々でした。
 リハビリ専門病院に移ってから1ヶ月あまり、定期的な検査と日々の父の状態から、“血液の病気”が隠れているのではないかとの懸念があるという話で、大学病院での詳しい検査をすすめられ、入院先から大学病院の血液内科を受診することになりました。 
 血液内科の担当医は、 リハビリ病院からのデーターを見た限りでは数値の異常は年齢的な範疇で、病気を疑うほどのものではない気がするとの話でしたが、念の為の血液検査の結果は“多発性骨髄腫”の疑いありでした。
 詳細な診断結果は1週間後とのことでしたが、病気自体はほぼ確定で、まずは治療という話になりました。
 リハビリは一旦中止。治療は通院での投薬が基本で、骨髄腫の治療のために大学病院に入院と言う方向には動きません。 家の近くの、血液専門内科のある病院に、紹介状持参でまずは外来受診(担当医が治療方針を示してくれる)が通常の段取りとはいえ、父のリハビリは3ヶ月間の予定の3分の1が経過した状況で、外来受診(通院でガン治療?)できる状態ではなく、大学病院の診断書つきで、リハビリ病院から血液専門内科のある病院への転院の方向でコトは進められました。転院先病院の候補は大学病院で情報を提供、実務はリハビリ病院の相談員が担ってくれました。

 検査を受けるために大学病院を受診してから、血液専門内科のある病院への転院まで、 2 週間少々だったでしょうか。我が家から近い順にコンタクトをとってもらって、第一希望の病院は満床で、外来受診の飛ばしての転院はすぐには無理とのことで、窓からお城が見える大阪市内の病院に決まりました。
 リハビリ病院の主治医が気にした“血液の病気”が“多発性骨髄腫”と言う病名を持って知らされることになって、目の前が真っ暗になるようなショックは、あまり自覚がありません。
 大学病院の医師の、いい薬ができているし、通院、投薬治療が基本と言う説明にも、深刻さが感じられなかったこともありますが、それよりも、原因はこれだったのかの納得感の方が大きかった気がします。
 骨の痛み、腎臓、心臓機能の悪化や、それに伴う貧血や浮腫など、慢性腎不全の傾向のある高齢者には、ありがちな自覚症状は、そのまんま“多発性骨髄腫”の症状と重なるために、 病気のシグナルとしては、見過ごされがちになるようです。
 4月に、腰の痛みを訴え出した父が緊急入院した時の腎臓機能数値の悪化や、2度も輸血が行われながら十分な改善に至らなかった貧血状態など、『犯人』が炙り出された気分でした。骨髄腫が改善されれば、表にあわられている父の体の不調も改善に向かうくらいのつもりで、向き合った転院先の血液内科の担当医からは、でも、治療をするかしないかの選択を迫られました。治療をするための転院と思ってましたから、「どうします?」の答えは用意しておらず、焦りました。
 実際に担当する医師にしてみれば、そりゃ、今はいい薬ができてますから!のノリでは引き受けられないのは、当たり前かもしれませんね。
 治療の有無によって、先の寿命にどれほどの違いが生じるかを考えざるを得ない高齢者!です。 
  治療のリスクも無視できないことに加え、効果には疑問符が外せないというニュアンスの見立てでした。そりゃ、そうかもねという感じです。わたし自身、大学病院で診断結果と今後の治療についてを聞かされたとき、(父の年で)治療できるんですか?と聞き返してたんですから... .。ただ、治療のために、多くの人のサポートを受けて辿り着いた病院です。そこで、緩和病棟の紹介を受けて転院するのは、違う気がしました。リスクのある治療はやめて、過ごせるうちは自宅で...という選択ではなく、病気の性質上、治療しない場合は緩和病棟(ホスピス)へ..です .。治療をするつもりでいる父にしても、ホスピス直行ルートは、酷に思えましたし、家族として、治療をお願いしました。
 コロナ禍中、病室に入った父とはもう、直接話をする機会がなく、治療は、症状や病気の進行度合いに対しての対処で、完治することのない骨髄腫と付き合って行く上でのサポートという説明も、担当医から父にしていただきました。幸いにも、投薬開始後も、さほどの副反応は現れず、毎夕刻の父からの電話によると、 短い距離ながらリハビリ歩行も行っているとのことでした。荷物の受け渡しは、各階病棟のナースステーションでだったので、父の様子は都度、看護スタッフからの情報提供がありました。父によれば、スタッフはマメでサポートも行き届き、特に毎日様子を見に立ち寄ってくれる主治医は、父にとっての『名医』だったようです。
 世話になるスタッフに信頼を寄せて過ごせるのはよかったです。
 3週間ほどたった時期だったでしょうか、恒例となった週一回の届け物に立ち寄った際、スタッフが「ちょっと顔見てく?」と、父をナースステーション際の廊下まで連れて出て来てくれました。
 杖をついての歩きではなく、この時は車椅子でしたが、 意外に『様子に変わりなく』いい傾向を実感しました。

 父が言うところの『名医』から、父の状態の悪化が知らされたのは、それから数日後。
 その連絡からさらに数日後、廊下で距離を保って父と面会した日からちょうど1週間後に、主治医から詳しい状態の説明を受けました。クレアチニンの数値が、計る度に悪化していて、(腎臓の働き弱ってる)、ほとんど寝たきり状態に陥っているとのことで、透析が現実的ではなく、打つ手がない状態で経過見守りの様子でした。
 骨髄腫の治療(1クール投薬 )はすでに終わっていて、(かなりの効果はあったようで、「除去できた」との説明)数日前からの状態悪化が投薬の影響が遅れて現れたと考えられないこともないけど、そう考えるには『遅れすぎ』で、主治医にも困惑がある様子でした。
 数日後の日曜日の20時過ぎに、クレアチニン値がさらに悪化した報告とともに、流石に短期間に何が起こっても不思議ではないと言う通告電話がありましたが、そういう状況でも、家族が呼ばれることにはならないコロナ禍...。何があっても、慌てないために、こちらも近くの葬儀会館に相談にいき、見積もりを元に、必要になる金額を手元に用意しました。...2月14日のことです。
  ところが、3日後、17日朝 の電話は、主治医からの深刻な話ではなく、父本人から「今日はスッキリ目が覚めた気がする。」という、想定外のものでした。

 いっぽう、想定外の行動でスタッフを驚かしていたのが、母。
 12月には、予約不要で居室内で面会できるようになってよかった、といってたのも束の間、年明けから再びの面会禁止で、コルナ感染状況に振り回される日々でした。
 母が部屋の入り口で床に座っていたと言う報告電話があったのが、1月中旬だったでしょうか。
 転倒したという様子ではなく、スタッフのサポートで立ち上がると、どこも痛がる様子はなく普通に歩いたので、大事はないと思うけれど、様子を見るという連絡でした。同様の連絡が翌日、またその夜にと続くので、よくきいてみると、転倒の可能性があるので、報告しなければいけないルールになっているとのことだったので、床暖で暖かいから自分で座りこんでいる可能性もあるし、床に座っているだけで体調に変化がないなら、連絡の必要はないという話を、こちらから施設に伝えました。
 こちらの意思表示がなければ、スタッフの『常とは違う事柄』に関して報告の義務がはすされない様子でした。
床に座っていた母の膝が少しあかくなって、熱っぽいので、念のために湿布をしたと言う電話をうけたりすると、なんだかもう、電話をかけてくる時間、せめて休んで欲しいと感じましたっけ。

 その後、ケアマネージャーから、母が自分で座っていたことがわかったとの連絡がありました。
 ソファから、ズリ落ちるような感じで、床に座った後、困る様子もなくくつろいでいたので、転倒の懸念は一旦リセットされた様子でした。
 ベッドの位置をずらし、 ソファを窓側ベッドのまくらもとよりに動かして、ソファや床からの立ち上がり時に
ベッドの柵サポートになるよう、レイアウトを変えたら、いい感じに立ち上がれているとの話で、その後は床座りに関する情報は届かなくなりました。

                                
                                  22/10/01 

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2022年3月〜5月(父、治療を断念。 母、席取合戦参入?)

 2月の半には『死にかけていた(主治医 言)』父が、『目が覚めた(父言)』直後、少し様子を見て、その後は再度緩和病棟への転院の話が持ち出されました。いわゆる治療の継続は難しいという判断ですね。
 ところが様子を見てると父はかなり『よくなってきた(主治医 言)』ので、治療を再開できるかもしれないという話になりました。
 打てる手がないと言われていた腎臓の悪化状態もクレアチニン数値的には改善して、正常値ではないけど、父にとしては久しく見たことがない『良い数値』が弾き出され、やはり、骨髄腫治療の効果は現れた感がありました。
 ただ、 骨髄腫の治療は、 続けるか、やめるかの選択なんですね。 
 できる間は治療を続けて 、続けられなくなったらその時に悩もう... という話ではなく、続けられそうかどうかという判断です。
 実は、治療の再開ができるかもの期待と共に、しばらく経過観察処置がなされたあと、主治医から、父の状態が落ち着いている『今』、一旦家に帰してあげたいとの提案がありました。 治療再開前のリフレッシュといえば、『いい提案』ですけど、同時に、再開後の万が一にも備えての配慮なのだろうと、わたしたちは感じていましたが、それにくわえて、 家族が現実に向き合って決断する時間の提供でもあったのかと解ったのは1週間後、予定通りに父再入院(この時期外出許可が出せないとかで、再入院の手続きコミでの退院でした。)の当日でした。
 看護師は、元気に戻ってきてよかったと迎えてくれましたが、自宅での1週間、父の体調は不安定でした。

 再入院に備えて緊急購入したiPad(当時病室にWifiがなかったのでインターネットのためにiPadが最適と判断)
の操作を覚えたり、(PCと違って、父としては初タッチ画面操作)フェイスタイムで母や親戚の子供との会話の手順を反復したり、たづねてきてくれた実弟夫婦に、圧迫骨折からのなが〜い経緯を話題にすごしたりと、やることが多く気力も充実してはいましたが、体力が...。バッテリーの持ちがわるくなって、すぐにエネルギー切れになるような感じといえばいいでしょうか。ただ『充電待ち』の間、疲労感だけではなく具合もわるくなるので、なかなかに深刻でした。
 入浴も本当なら毎日でもという思いは思いとして、父本人も、不安がある様子で、浴室暖房状態でもシャワーにとどめ、湯船に浸かったのは、介助スタッフのサポート付きで1日にだけに終わりました。 それゆえ、『今が一番いい状態』として、今後、通院での投薬治療ができそうかどうかと問われると、なんとかなりそうとさえいえない状況でした。自宅内でさえ『充電待ち』が頻発する状態で、総合病院(血液専門内科のある)への通院を、なんとかなる話ではありませんし...。
 治療を再開して、もう少し骨髄腫の症状がやわらいで、体力をつけていけばというのは父の年齢では期待できないことで、今無理なことは先になればもっと無理という想像は容易です。 
 そうであれば、治療再開の意味がなくなると言われれば、迷いは生じましたが、改めて、治療のリスクをも考えて、この先は自然の成り行きに任せようという判断になりました。

 結局、『緩和病棟』の選択に戻ることになりましたが、じゃ、なんのための治療だったのか...の話ではありません。1.クールに終わりましたが、父は転院当初よりは状態が改善したわけで、骨髄腫の進行状態を一時的にでも引き戻したおかげで、『帰宅』の機会も生まれたと思えば、、治療してみてよかったということです。

 ところが、その改善した状態の結果、緩和病棟選びは難航しました。
 自分で動けて、食事もできて、酸素吸入も必要としない状態では 、受け入れ基準外という...。受け入れられたとしても、3ヶ月をめどに(状態に変化がなければ)転院の話になる条件がついていたりする中で、主治医が、(父の状態をみて)もしかしたら1年、2年は大丈夫かもしれないと言ったりもしたとかで、相談員も大変そうでした。
 しばらくのち、少し我が家からは遠いけれど、あらかじめの期限に関しては規約のない、ガン専門病院の緩和病棟との話がすすみ、わたしと主人が主治医の紹介状を持って、緩和病棟主治医との面談に出向きました。
 紹介状をみるなり、90歳の高齢者に骨髄腫の治療をしたことに驚かれました。
 そりゃ、治療とは言わないと(緩和病棟の医師ですから)...。治療の継続を断念した判断は間違いなく正しかったと、慰めてもいただき、「ウチにきなさい。」と受け入れにも問題なしでしたが、ちょうど父が高熱を出していた時期で、動かすにはちょっと...転院の日時は、父の主治医の許可がでしだい、病院間で調整となりました。
 それから、1週間ほど後だったでしょうか、父の状態もよくなって、いつでも転院OKとなったところで、転院先の病院にコロナのクラスター発生。緩和病棟も含め、全ての入院受け入れをが 当面の間中止となりまして...相談員から、先方の条件がととのうまで、「お父さんはこちらでおあづかりします。」の連絡がありました。

 有料介護施設住まいの母は、他の入所者と、椅子の取り合い(座る場所)で、モメることがあるとの情報が入りました。
 スタッフが仲介に入って、大ごとにならないようにケアしているとのことでしたが...。「お、(先に座っていた相手を椅子から)どかした。」 と、スタッフがみていて、なんか笑えるといいますけど、それ、意地悪婆さんみたいで、娘としては、申し訳ないとしか言いようがありません。
 遠慮がなくなって、それだけ馴染んできたということでもあるので、決して『悪い』情報でもないとのケアマネージャーの見解が、ありがたい限りです。

                                  23/05/04 

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2022年5月〜(父、転院。 母、マイペースな日常)
 
 2022年、5月中旬、緩和病棟のある病院のコロナ感染状況も一段落した様子で、父の転院が日時が決まりました。

 介護タクシーの手配をはじめ、転院に関しての必要事項は相談員が骨を折ってくれました。当日、父の退院手続きを終えたのち、わたしたちは父が3ヶ月あまりお世話になった病院からの書類をあづかり、介護タクシーに同乗して、転院先に向かいました。

 2日前に主人が体調を崩し、発熱が生じた場合にややこしいことになるので、代わりにおじに付き添ってもらいました。

 いつ何があってもおかしくない... と主治医が時間外に電話をくれるような状態にあっても、家族が病室に到達できないできないというコロナ渦中、入退院等の『付き添い』が、貴重な『面会』のチャンスです。所用時間は1時間少々、とはいえ、目的地は先への希望が絶たれて行き着く場所なわけで、会話が弾むはずもありませんが... ただ、スタッフに見送られて車が走り出してすこししたころ、父が「この病院のスタッフは...な。」とおじに話しかけるようにつぶやきました。前の列に座っていたわたしには、そのあとの言葉は聞き取れず、父は言葉を発したのかどうかもか確認できませんでしたが、父の想いを察することはできました。
  常々スタッフが、よくしてくれることをありがたがっていましたから、そこにいられなくなった状況は、切なかったのだと思います。

 治療を諦めての転院です。

  退院はない未来、ひとときを過ごす先でも、家族が付き添えるのは受付のあるロビー階までで、父はスタッフに車椅子を押されて病棟に上がりました、
 入退院に対応できる程度に、病院のコロナ感染は収束したとはいっても、対策故の制限が緩和されることなく、紹介時に聞かされていた(緩和病棟は)週に一度30分程度の面会ができるようになったのは8月になってからで、それも2週間ほどでまた禁止になり、ほとんどは週に一度10分のオンライン面会でした。
 最初のオンライン面会の前、転院後3日目くらいだったでしょうか、それまでも毎日電話で話をしていた父が「ここのスタッフは、最高だ。」と報告してきました。これまでいろんな病院に行ったり、入院もしたりしてきたけど、 これ以上のスタッフはいなかったというわけです。親切だし、よく気がつくし、話も上手いし、とにかくいい!と...。
 緩和病棟のスタッフは、『患者の回復のため』のスタンスは不要な分、患者との関わり方も違っているのだろうと思いましたが、何にせよ、「最高だ!」と思えるスタッフは、父の過ごす環境で一番の恵に違いありません。
 転院時の寂しげな様子とはうって変わって、新たな『居場所』に慣れた父の話振りにこちらもほっとしました。  一方父の最大の不満が食事でした。スタッフ最高の報告前に初日に食事が美味しくないとの話はありましたが、最低レベルに美味しくないとの不満は繰り返し... 。すこしして、スタッフから父が味覚障害で塩味を感じなくなっているとの報告を受けて、なるほどと思いました。ほとんど味がないというより味を感じられなくなってきていたということなんですね。 骨髄腫で表れる症状の一つだそうで、幸い甘味に関しての影響はあまりない(まだ先)とのことで、果物やフルーツジュース、お菓子などを、面会時に届けることが習慣になりました。
 荷物の受け渡しは午後の数時間、総合受付預かりで、食品は常温保存できる市販のものという制約がつけられていましたが、オンライン面会時に立ち会ってくれている(画面に姿はうつらない)スタッフが面会終了後にすぐに取りに降りてきてくれるので、保冷バッグに入れて持ち込んだ食品も届けることができ、病院の食事では不満が募る父に、幾らかでも食べる楽しみを届けられました。

 7月半ば、毎年柳川から取り寄せているうなぎを、細めに短冊允状に切って、タレと一緒に届けたところ、その日の夜に久々にうなぎはおいしかったとの電話がありました。スタッフが温めて、病院のご飯でひつまぶし風に仕立ててくれたそうです。残ったタレを冷蔵庫で保管して、またご飯にかけて食べるというのを、傷んだら困るから処分するよう促しましたが、美味しいと思える食事ができてよかったと応じましたっけ。
 続けてうなぎを届けるのも...と思ってたら 、父は数日後にホルモンへの興味を示しました。スタッフと話をしていて、そういえばホルモンは美味しそうだと感じたのか、おいしかった記憶が蘇ったのか...ただ我が家はホルモンとは無縁でしたし、そもそも病院に届けるアイテムでもないでしょうし、ということで、缶詰仕様のホルモンや牛肉の胡椒焼きやら(いわゆる酒つま)を試しに届けましたが、こちらは味が薄いという感想でした。うなぎがおいしかったのはタレの甘味効果だったのかもしれません。
 缶詰の味が薄いと感じる父は、自分の味覚障害も説明を受けて自覚していたものの、病院食の『最低』評価に変更はありませんでした。ただ、最高のスタッフが行きつけ店で買ってきてくれたホルモンは、辛かったということで、辛過ぎて唇が腫れたと聞かされた時には、笑えてしまいましたが、唇が晴れるほど辛いものは普通はたべられないだろうなと、腫れは辛さの故じゃなく内臓機能の低下のむくみかもしれないしと、笑ってられる場合じゃない状況を推しました。

 それまでにも数回、スタッフからは「いつ何があっても...。」の話はありましたし、8月からの直接面会解禁を前に、それまで時間があるかどうかとの懸念も示されました。ただ、病室にまで上がっての面会時には、拍子抜けするほど元気そうに見えたりもして、父の状態は悪化の一歩でもない様子でした。
 あいにく、再びの病院内コロナ感染患者発生で、直接面会は2週間後にオンライン面会に切り替えらえましたが、届け物を受け取りに降りてきてくれたスタッフが、病室の窓越しに父を見ることができるからと外にでて指し示してくれた窓辺で、こちらにて手をふってみせる父は、少し前に画面越しに話した時よりも機嫌良くみえて、窓越しの面会をアレンジしてくれたスタッフの心配りに感謝でした。
 
 ただ、父の食欲減退は深刻さをました様子で、スタッフからは、面会時の夕食に何か父の好物を(お弁当など)を届けるなどの提案がありました。常温保存の市販品が原則なのに、保冷バッグを持参するのも「いいんですか?」だったところに、その日の夕食用にならスタッフルームの冷蔵庫で保管もできるので、お寿司でも中華でも、とにかく食欲が出そうなものならなんでも受け付けると..ご飯に関してなんとかしてあげたいので、(家族は)たいへんだろうけど検討してもらえればとの話でした。それならと面会時には晩御飯になるものも2度届けましたが、2度目の時は、画面越しにに見せても、父は、「そりゃ、美味しそうだ。」の反応ではなくなってました。食べられなくなっていたようです。

 父の緩和病棟転院の話は、母にも聞かせましたが、深刻さは伝えないよう心がけました。
 一時的に面会規制が緩和されたとしても、コロナ感染者数次第でいつ規制が強化されるかわからない時期でしたから、母に不安を抱かせないことを優先しました。そもそもの始まりは父の緊急入院です。のちに、ご近所の方から、父が朝病院に呼ばれて出ていったきりまだ戻ってこないという母の様子が、心許なげだったと聞かされましたが、心配事が、母にとっての『スタートライン』に戻りかねないリスクは避けようということで、ケアマネとも一致した判断でした。

 そして、父の主治医からの電話があったのは、(9月からオンラインではなく直接の面会ができるようになるので)来週は直に会えるからといって帰宅してから、数日後のことです。

                                  23/12/04 

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2022年9

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