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10パーセントの推測をを裏付ける為に90パーセントは体験談の紹介になります。
 少々、長い話なので、時間と気力に余裕のない方は青い文字部分を拾って御覧下さい。なお、コメントはふたつの店に優劣をつけるものではありません。




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  マリアージュ・フレールとレピシエの不思議な関係

  
    

 左が1995年3月号で休刊(廃刊)になったマリアージュ・フレール・ジュルナルと、お茶のサンプル。
 右が同年7月号がVol.1になるレピシエだよりとお茶のサンプルです。

  
 

 1992年〜1995年 マリアージュ・フレール

 
フランス最初のお茶の輸入業者として、フランスのお茶の歴史の中心にあるマリアージュ・フレールが東京、青山に店を開いたのは1990年のことのようですが、欧州の隣国でもなく、紅茶の国と言われる英国でもなく、日本が顧客対象になったのは、“茶の湯”の伝統があったからかもしれませんね。
 
 わたしがマリアージュの名前を知ったのは、92年の春のことです。
 つくば市にあるフランス料理の店でランチコースの最後に出されたのが、マリアージュのボレロでした。今思うと、この時のお茶が本当においしかったのがどうかは疑問なのですけど(春摘みのダージリンより薄い水色だったし、浅いカップに一杯だけ、だったし...。)香りが印象深くて、どこのお茶なのかとスタッフに尋ねて、初めて耳にした名前に興味を持ったのでした。
 この店がフォートナム・メイソンフォションではなく、マリアージュを選んだ理由はともかく、一杯のお茶(の香り)が、我が家のティータイムをコーヒーから紅茶にかえるきっかけになったのは確かです。当時は青山店のことも知らず、同市でマリアージュのお茶のみをメニューに列ねて、販売もしていたティーサロンに足繁く通いました。サロンではメニューと一緒にお茶選びの参考としてマリアージュのお茶の本が出されたので、目からウロコのお茶の知識を得る一方で、店のスタッフのアドヴァイスを受けながら、茶葉を選ぶ楽しみを経験しました。それまで、紅茶と言えば箱か缶に封印されているものでしたし、茶葉を見るどころか、例えばデパートにブティックのように店を構えているフォションにしても、缶に書かれている以上の説明をスタッフに期待することはできませんでしたから、マリアージュでは、お茶を買うというプロセスも新鮮だったのです。

 ところが1年後、我が家は転勤で、その店とのおつき合いが続けられなくなりました。
「どこへでも、送りますよ。」とは言われましたけど、引っ越し先でもこんな店が見つかるかもしれないという期待をして、わたしは缶の底に貼られていた販売元に連絡を取りました。この、販売元はマリアージュ・フレ−ルではなく、別の会社名でしたが、電話の相手はマリアージュと名乗ったと記憶しています。
 残念ながら、新たにわたしたちが住む街にはマリアージュ専門店はありませんでしたが、その代わりに、わたしは通販の案内を受けることができました。オーダーはフリーダイヤルで、送料は1回の注文が3000円以内だと600円(本州以外、1000円)3000円を超えると300円(本州以外は600円)というサービス価格で、(この値段、憶えていてくださいね。)代金は商品と引き換えで、という便利さでした。
 感激したのは、通販を初めてからすぐに、マリアージュ
・フレールジュルナルというお茶の情報紙が毎月届きだしたこと! ジュルナルには小さなプレゼントというかたちで、6グラムの茶葉もついて来ました。 直接店にいけない通販利用者にとって、1年12種類のお茶のサンプルは、かゆいところに手が届くようなサ−ビスに思えました。購入実績がなくても、リクエストすればジュルナルは届いたので、サンプル目当てで申し込んだ知人も少なくありません。
 日本上陸から3年目を迎えていた時期、マリアージュは店鋪の少なさを労を惜しまない細やかなサービスでカバ−していたように感じます。
 一定額以上の購入に対してはお茶の本などのおまけがついて来たり、決められたリストの中から自分で5種類、10種類のお茶を選べる少量、多種類のお徳な買い物システムもありました。もちろん、お正月には福袋も! 
 ティーフィルターを使うお茶入れ方、水だしアイスティーの作り方など、英国流とは異なる情報が毎月ジュルナルによってもたらされました。ゴールデンルールの必然性をきちんと理解していたなら、抵抗があったかもしれませんが、黒い缶と名前がおしゃっれ〜と言って、プリンス・オブ・ウェールズを買っていた程度のわたしは、ポットの為のもう一杯、も、沸かしたてのお湯、も知っていただけで、考えてはいませんでしたから、簡単にマリアージュ流になびきました。
 英国流のゴールデンルールは、(ダージリンのようには)癖のないアッサムやセイロン種が好まれていること、ミルクティーが主流で、しかも水は茶葉の成分が出にくい硬水という背景があるわけで、ミルクも水も違う上に、ダージリンが好まれる日本では、英国流をまねるだけでは無理が生じますし、茶葉や水の相性を理解した上で、ゴールデンルールにも日本流のアレンジが必要なのではと、今は思うのですけど.....当時のわたしはそこまで考えてはいませんでした。おいしい紅茶を飲ませてくれるのは、マリアージュのサロンか、マリアージュの茶葉を扱っている店、という現実がありましたから、我が家にとって、マリアージュ流は英国流をこえることになったんですね。

 通販を利用するようになった93年から2年間、毎月欠かさずに届けられたマリアージュ・ジュルナルは、95年3月号に突然に休刊のお知らせが掲載されました。
 理由は、パリ、本店との編集方針との違いにより、現状の内容で続けることが困難になった為。
 しばらくの...と言われたジュルナルは復活することなく今に至っていますが、この時のジュルナルの発行は、マリアージュ・フレール青山店と記載されています。パリ本国でこうした情報紙が発行されていたのかどうかは未確認ですが、わたしが受け取ったジュルナルの記事は日本国内の顧客を対象にしたもので、その多くは(青山店の)オリジナルだったと思います。
 ジュルナルは休刊になっても、マリアージュはそのまま、ならよかったのですが、それまでの通販専用フリーダイヤルは青山店インフフォメーションダイヤルと名称を変えて、お茶に関するアドヴァイス専用ダイヤルになりました。ジュルナルの代わりと考えれば、ありがたい変更ですが、実際には通販サービスの縮小でした。送料等は代わりませんが、取り扱アイテムが100種に激減。(それまでは一応全種類、でした。)しかも、品切れが目立ち始めます。その上に入荷も未定と言われては、おかしい、と思わざるをえませんよね.
 そして、この時期より少し前、わたしは注文の電話をかけた際、お馴染みのマリアージュのスタッフから、近い内に、新しくレピシエという紅茶の店ができることを聞かされたのでした。 

                                         01/09/11 


 1995年〜1997年 レピシエ

 
「こんど、紅茶の専門店ができるんですけど、案内を送らせていただいてよろしいですか?」
 マリアージュに注文の電話をかけた時に、ついでの世間話のような調子で、スタッフから尋ねられたのは、95年も始まったばかりか、もしかしたら94年の暮れだったかもしれません。
 
 この時、新しくできる店はマリアージュ関係の店と理解したわたしには、案内を拒否する理由もありませんでした。ただ、当時、既に400種を超えるお茶を扱うマリアージュがあるのに、いまさらどんな店を作ろうというのだろう、と思ったものです。
 わたしとしては、マリアージュの品揃えにもサービスにも満足していましたし、今は高いと思えるお値段も、同じ類の茶葉ならフォションフォートナム・メイソンと大きく異なるものではありませんでした。いづれも、関税がかかり、日本国内での販売に際して、利益が生じるように価格が決められた輸入品です。農園別のダージリンや摘み取り時期の異なる茶葉など、お値段の張る茶葉は、その時に比べる対象がありませんでしたから、こんなもの、と思っていたのでしょうね。
 
 ところが、新しくできる店は茶葉を直接輸入するというのです。マリアージュというブランド名は名乗れないかわりに、パリを経由しないメリットは少なくありません。時間と手間が短縮されるので新鮮な茶葉をより安い価格で販売する予定だとか...。輸入の缶紅茶などでは、賞味期限は3年後ということも珍しくはないのに、パリ経由と直輸入の鮮度にどのくらいの差が...と思いましたが、価格は、確かに魅力ですね。
 実際に新たな店、レピシエからオープンの案内が届いたのは、95年の6月、レピシエだよりの第1号になる7月号で、マリアージュ・ジュルナルの休刊から4ヵ月が経過した時分でした。
 その4ヵ月間に、取り扱う茶葉は減るし、在庫切れの上に入荷予定もハッキリしないマリアージュの印象は、右肩下がりの一途だったのですけど、それでも、少なくなったとは言っても100種類の茶葉を計り売りで購入できる店は他にはないし、春摘みのブルーム・フィールドだの、ピュッタボンだのジュンパナだのと言い出したら、マリア−ジュ以外にどこを頼るのかという感じでした。

 だから、ティーリストを兼ねた初めてのレピシエだよりで
いきなり184種類の茶葉を見た時には、目を疑いました。ダージリンの春摘みだけでも14種類! マリアージュに及ばないまでも、期待以上というより期待もしていなかった充実のラインナップです。お値段はマリアージュの3分の2、茶葉によっては半分以下のものもありました。
 ちょうど、その頃にわたしはマリアージュグラン・ボワ・シェリを切らしていたのですけど、マリアージュでは在庫切れで入荷未定。仕方なく、つくば市の店に電話をして在庫がないかと尋ねたのですが、その店ではもうマリアージュの取り扱いをやめていました。
代わりに、全く同じお茶があると紹介されたのですが...同じといわれても、と考え込んでいる時に届いたレピシエだよりでした。

 例の店がようやくオープンしたのかと見たリストで、目についたのがモ−リシャス島バニラティー
 グラン・ボワ・シェリと同じ産地です。ダージリンやセイロンはともかく、アフリカのお茶までマリアージュと同じところのものが....。 待っていてもいつ入荷するとも分からないグラン・ボワ・シェリの繋ぎにはなるかもと考えて、わたしはレピシエダイヤルに電話をしました。メールオーダーのシステムは送料の区分までマリア−ジュと同じでした。
 初めての、電話に応対してくれたのは、なんと、それまで何度も電話注文を受けてくれたマリアージュのスタッフのひとりでした。「いつもありがとうございます!」と言われたわたしは、自分がどこに電話をしているのか、確認したくなったほどです。相変わらず丁寧で、じっくりと相談に乗ってくれるそのスタッフはこう言いました。
「マリアージュの頃の御注文の記録があるので、おこのみのお茶を御案内できると思いますし、スタッフはマリアージュのお茶を知ってますから、マリアージュのお茶を言っていただければ、こちらで1番近いものを御紹介できます。これからもよろしくお願いします。」
 ....ああ、やっぱり、マリアージュの関連のある店なんだ。(これが、誤解だと分かるのはもう少し後のことです。)
 あらためてそう感じたわたしは、知人から突然に配達された“レピシエとかいう店”のお客様番号がマリアージュのと同じだと聞かされました。それはまるで、休刊したマリアージュ・ジュルナルがレピシエだよりとして復刊したようにも思えたのでした。

 はじめまして。レピシエです。から始まる挨拶には、レピシエがフランス後で“食料品店”という意味を持つこと、フランス人の食へのこだわりに敬意を表し
てフランス語の店名をつけたこと、そして、スタッフはお茶の輸入、卸し販売のエキスパートで、どこにも負けない品質、価格のものを直接消費者にという思いがつのって小売業を始めたとあります。それだけなら、一瞬躊躇するほどの価格を歓迎して、ありがたい店がオープンした、ということで済むのですが、問題はこのあと少し経ってマリアージュとの連絡が途絶えてしまったことでした。
 つまり、通販頼りのわたしにとっては、唯一の連絡先だったインフォメーションダイヤルのあったマリアージュの青山店がレピシエの青山店に変わってしまったんです。
 レピシエ青山店のが地図の上で紹介されたのはレピシエだより10月号の紙面でしたが、その位置を見て、主人がどう考えてもマリアージュのあった店だというので、都内在住の友人に見に行ってもらいましたが、日本におけるマリアージュの基点とも言うべき青山店は、建物はそのままで、レピシエになっていたのでした。
 通販を利用していると、店の雰囲気というものは分かりませんから、たとえばピュッタボンがマリアージュではなくレピシエから送られてくることに不自由はありません。システムも注文を受けてくれるスタッフも同じで、違うのはパッケージと価格、その価格が安いのですから、マリアージュに固執することはないのですけど....。茶葉に限らず、ティーフィルターもティージャムも、嬉しい価格で手に入ります。

 でも、そこにはこちらが選択できる余地はありませんでした。
 マリアージュでしか扱いがない茶葉もあれば、ブレンドやフレーバードティーは似てはいても同じものではありません。レピシエのオープンは歓迎しても、マリアージュの代わりになることを望んでいたわけではないわたしは、97年の初秋、ひょんなことからマリアージュとの再会を果たします。
 1年、2年と時が経って、レピシエが全国に店鋪を展開する中、マリアージュとの係わりのないスタッフも増えて、レピシエが日本生まれの画期的なティーブランド勢いをましていた時期の話になります。

                                         01/09/11 

 1997年〜現在 マリアージュ・フレールレピシエ

情報

 東京、有楽町のプランタン内にマリアージュの店があるということを教えてくれたのは、柿のお裾分けをレピシエの袋に入れてくれた知人でした。

 我が家は97年の春に再び茨城県民になっていて、初めてマリアージュの茶葉を購入した、つくば市のティーサロンにも通える環境にありましたが、店は4年間に2度のリニューアルを繰り返したそうで、元の雰囲気はありませんでした。使われていたマリアージュのポットやカップはオリジナルの物に、茶葉は予想通りレピシエのもの変わっていました。
 店頭でレピシエの茶葉を見て買うことが可能だったにもかかわらず、わたしたちがこの店に通うことをしなかったのは、喫煙が自由になっていて店内の匂いが気になったからです。ついでに言えば、この頃はレピシエの千駄ヶ谷本店のサロンも喫煙オッケーで、禁煙席すらありませんでした。一度で懲りて、それきりになりましたが、いつからか店内禁煙になっているようですね。(つくばの店も、再度禁煙になったと聞きます。)
 それで、お茶を飲むといえば“ル・アージュ”や“シ−ゲル”(わかる人だけへの情報です。お薦めなので、名前を明示しました。)という店に通っていました。どちらもお茶の香りを楽しむ為に、という理由で店内禁煙の案内があって、マリア−ジュ式に茶葉はポットから引き上げられてました。ル・アージュの方は高野の茶葉を使っていたと思います。季節になると、春摘みのダージリンがメニューに加わりました。
 ただ、茶葉のラインナップは、やはりレピシエには遠く及ばず.....で、わたしはもっぱらレピシエの通販を利用していました。
レピシエの店鋪は驚きの勢いで全国に広がっていましたが、近場にはなかったんです。そうして、半年も過ぎようかと言う頃に目にした、柿入りのレピシエ袋です。中の柿よりも袋に心が動いたことは言うまでもありません。こんなところに、紅茶を語れる人が...という喜び、ですね。
 実際には、知人はたまたま見つけたレピシエショップで買い物をしただけで、袋を持っていてもレピシエの名前も認知していなかったので、わたしの期待は空振りに終わりましたが、その彼女が、実はマリアージュのファンだったというのが、できすぎているけど本当の話です。
 知人は1、2ヵ月に1度、上京した折りにプランタン内のマリアージュで紅茶を買っていたそうです。
 そのつもりでプランタンに寄ったある日に、プランタンが休業中で....近くの阪急デパートに望みをかけた結果、聞いたこともない紅茶専門店らしき店(レピシエ)を発見したということでした。(現在、レピシエは阪急デパートから撤退)彼女にとってはもちろん、名もなき店はマリアージュの類似品のようなもので、いい印象はなかったようです。産地、農園別の、例えばキャスルトンなら、直輸入のレピシエにもメリットはあるよ、という話をする雰囲気にはなりませんでしたが....わたしは彼女から興味深い情報を得ることができました。

 通販システムを知らずに、もっぱらプランタン内にあるマリアージュの店鋪を利用していた彼女によると、数年前に店鋪のスタッフの総入れ替えがあったそうです。
 どれもこれもが品切れで.....次の入荷予定もわからないという一時期があった後、もしかしたら、もうマリアージュは撤退しているかもしれないという覚悟でプランタンに寄った時のこと、マリアージュの茶葉は在庫切れだったものも全て補充されていたものの、そこにいたスタッフは全く知らない人ばかりで、はじめての店に入った気分だったということです。顔見知りになっていたスタッフが全員店をやめたと(あらたなスタッフから)聞かされた時は、ショックを受けたという彼女の気持ちは察することができました。
 通販を利用していたわたしの前からは、マリアージュの商品が消え、店鋪を利用していた彼女の前からは(それまでの)マリアージュのスタッフがいなくなったということになりますね。
 マリアージュのスタッフの中にはレピシエに移った人たちがいることを、わたしは知っています。移るスタッフがいれば、あらたに入ってくるスタッフがいても不思議はありませんが、ただ、一斉に人がかわるというのは、よくあることではありませんね。
 この話を聞いた週末、マリアージュの店に行くのを主な目的に、わたしは主人と一緒に常磐線に乗りました。そして、初めて会ったマリアージュのスタッフから、90年から95年までのマリアージュと、それより後のマリアージュは、別のものという話を聞かされることになるのです。

                                        01/09/17  


再会

 今、読み返してみると、最後の刊になったマリアージュ・フレール・ジュルナル.95年3月号には再会を誓う言葉とともに、今後ともマリアージュの店(都内と近郊に合わせて5件)をよろしくという意味のことが書かれていて、そこには銀座プランタン店(わたしの中ではプランタンは有楽町、なのですけど...。)の名前もあります。ただ、他の店はジュルナルの最後に電話番号とともに名前を連ねているのに、銀座プランタン店ははずれているのです。
 当時はプランタン店には直通の電話番号がなかったからかもしれませんが、5件の内、はずされていた1件だけが、現在まで生き延びたということになりますね。

 プランタンの地下1階に構えたマリアージュの店は、5年前にお茶を楽しんだ、なき青山店では目にすることのなかった(たまたま、季節がはずれていたのですね。)木箱入りの春摘みダージリンが3種類、カウンターに並べられていました。ナムリン・アッパー、ジュンパナ、そしてマリアージュとの音信が途絶えて以来、購入が叶わなくなっていたブルーム・フィールド.....。既に、柿が出始めていた時期ですから、わたしは、数ある春摘みのなかで3種類だけが残っていたと解釈したのですが、この誤解は後で解くことにします。
 スタッフは、わたしとはもちろん初対面でしたが、茶葉を選ぶ過程でマリアージュとわたしが初対面ではないことを察したのだと思います。初めての客だと確信して“顧客カード”への記入を求めながらも、彼はこちらの利用履歴を聞いてきました。つまり、ココ以外のどこで、マリアージュを知ったか、あるいは、常にはどこで購入しているか、ということですね。この質問に答えるのは簡単ではありません。
 マリアージュについていろいろと知るきっかけになった店は、今はレピシエから茶葉を仕入れているし、2年間、マリアージュのお茶の購入窓口だったスタッフはレピシエの茶葉を売っているわけで、こちらとしては、長いこと購入したくてもできなかった事実を背負ってきたのです。
 ところが、店にあるティーリストを見ていてすぐに目についたのですが、銀座本店、マリアージュ・フレール ビルがすすらん通りにあるようなのです。
 ジュルナルで、今後もよろしくみたいなことを言っておきながら、青山店がレピシエにかわった時点で、マリアージュはレピシエに後を託して、日本から撤退したのかもしれないとまで考えて、諦めていたわたしとしては、ビルまで建ててるのなら、ハガキ1枚くれたっていいでしょうに、という不満を内に閉じ込めながらのお茶選びでした。
 そこへ「いままでは、どちらかの店を御利用いただいていたんですか?」と尋ねられたものですから、通販を利用していたと言うついでに、連絡不行届きで、随分不自由な思いをしたわ、とひとこと付け加えちゃったんです。わたし...。
 この、ひとことに対して、「御迷惑をおかけしました。」と“おわび”のあとに、スタッフが説明してくれたことを要約すると、次のようになります。....驚きました!

 1990年にマリアージュが日本に青山店を開店してから95年の春(ジュルナル、休刊)まで、マリアージュの商品は代理店契約をした店のスタッフによって、紹介、販売が行われたそうです。
 95年に(なにかの事情で)代理店契約の継続が断たれて、マリアージュは直営店、マリアージュ・フレール・ジャパンとして銀座に本店を構えます。代理店契約中、マリアージュの看板を掲げていた青山店は、契約終了とともにその看板を下ろすことになったようです。

 マリアージュの青山店がレピシエに変わる一方で、マリアージュは直営店として銀座に本店を開いていることになりますが、その時期の順序はわかりません。
 利用する側として、最も気になったのは、そうした最中に、90年からの5年間に及ぶ顧客データは全て、 商品を提供したマリアージュではなく、顧客を開発した(元)代理店のもとに残されたということでした。

 ある日突然、レピシエから案内が届いたことにも、マリアージュとの連絡が途絶えたことにも、納得できる答えを知らされた思いでした。

                                       01/09/18  

理解
 
 それは、ひどい.....。
 マリアージュ・フレール・ジャポンのスタッフから、マリアージュは代理店時代(1990年〜1995年)の顧客名簿を「代理店さんから、渡してはもらえなかった。」 (マリアージュのスタッフの言葉ですが、この表現が適切かどうかは判断できません。)と聞かされた時、単純なわたしは思ったものでした。
 レピシエは、ひどい...。
 代理店時代にわたしがお世話になったスタッフの中には、退職をしたということで、レピシエにはいなかった人もいます。そういうスタッフが、紅茶の仕事をやめたのか、
マリアージュ・フレール・ジャポンに動いたのか、あるいは他の店にかかわっているのかは分かりません。ですから、代理店イコールレピシエ、という言い方は、正しくないかもしれませんね。ただ、代理店が死守(?)した顧客名簿がレピシエにある(初めてのダイレクトメールの顧客ナンバーまでマリアージュの番号と同じだったのですから...。)ということで、マリアージュ・フレールの元代理店が、レピシエになったと考えて、大きな誤解にはならないと思います。
 いはば、「店の都合で取り扱い商品が変わりました。今後は新しい商品をお愛用下さい。」
という状況が、マリアージュ・ジュルナルの突然の廃刊と、続く、通販アイテムの削減とストックの激減、そして、レピシエのオープン案内でした。もっとも、そうなふうにハッキリと言ってくれれはよかったのですけどね。

 でも、マリアージュを気に入にいったからこそ、おつき合いを続けていたわたしにすれば、自分のデータは、レピシエがそれを利用したとしても、本来はマリアージュにあるべきものでした。データがあるべきところと連絡がつかなくなると言うことは、(地方在住の身にとっては)店そのものの消滅を意味します。当時、どれほど失望したことでしょう。
 そこへ、救世主のごとくあらわれたレピシエが、実は、マリアージュと自分を隔てる壁になっていた....。ひどい、というのは、つまりそういう感情です。

 ただ、主人は、ひどい、ひどい、というわたしと違って、少しレピシエにも理解を示しました。
 マリアージュは、日本には遅れやって来たブランドです。しかも、お馴染みのイギリス流とは幾分異なるスタンス...。そのお茶をわたしたちに紹介し、指示を得る努力をしたのは代理店のスタッフなのですね。その努力の結果の顧客名簿は、誰の物かと言えば、商品を提供した側ではなくて商品を販売した側のもの、かもしれませんね。理はレピシエにあったということでしょうか。
 実際に、今になって思うと、代理店時代のマリアージュの販売サービスが現在のマリアージュ・フレール・ジャポンのサービスと同じだったら、ほとんどを通販に頼りながらのおつき合いが続いていたかどうかは疑問です。
 通販専用のフリーダイヤルはどちらも同じですが、代引もきかず、完全前払い制のマリアージュ・フレール・ジャポンへのオーダーはやはり面倒ですし、情報紙の配付もありません。あらたなリストに名前がUPされてからは、年に数回、ティーリストや
新商品の案内が郵送されてはきますが、悲しいことに、たまにあるプレゼントも“店頭で”、が前提です。毎月の情報紙と、お茶のサンプル、カード決済も可能な通販に、お徳感をくすぐるセール商品...次から次へとアプローチがかかるレピシエと違って、現在のマリアージュの宣伝活動は控えめです。もう少し言えば、通販でのおつき合いにはストレスを感じます。
 マリアージュとの出会いが、もしも、95年以降だったら、ものすごく種類のたくさんある店だけど、たくさんすぎて、わからない、で終わっていたかも知れません。

 例えば、ダージリンに農園別の種類があること、摘み取り時期による違いがあることなど、マリア−ジュと出会うことによって得たとわたしが思っていた情報は、代理店のスタッフがジュルナルなどを通して1から解説してくれたものなのです。 ジュルナルを読み返すと、“日本では”、“日本の**では”、という記述がよくあります。本国との方針の違いの為に休刊することになったという情報誌とお茶のサンプルの配付は、もしかしたら日本オリジナルの宣伝活動だったのかもしれませんね。

 春には春摘みの、夏には夏摘みの、というように紅茶に季節感を加味したのも、季節もの、限定ものの好きな日本の顧客をターゲットに、日本のスッタフの戦略だったかも知れません。
 マリアージュは、と言えば、ティーリストにあるものは安定供給が原則のようで、12月になっても、春摘みのダージリンは各種、揃っているのですね。春に摘まれた特色を持つ茶葉は、他のものと同じ扱いで、一年を通じて販売されているものです。
 代理店時代のスタッフから「この時期だけのものですから...。」と薦められた ブルーム・フィールドが、最初の春摘みだったわたしは、春摘みは期間、数量限定ものという思い込みがあって、パリ本店のマリアージュでは、冬だというのに選りどりみどりだった事実の後でもなお、“時期を待つべきもの”だと思い込んでいました。
 レピシエにダージリンの春摘みが入荷してから、それに遅れることしばらくして、マリアージュ・フレール・ジャポンの店頭にも“今年の春摘み”が木箱に入れられて並びますが、それは 僅かに2、3種類! 「今年はこれだけなんです。」と説明されて、ティーリストにある20数種類の他のダージリンの春摘みは、日本にはやってこないと理解していたわたしは、2001年の春、自分の理解が誤解を含んでいたことを知ることになります。
 
 実は2001年、
マリアージュ・フレール・ジャポンの店頭には木箱が並ぶことがありませんでした。新茶の入荷予定は未定だというのですね。ブルーム・フィールドが欲しかったのに...という わたしに、スタッフは「昨年のなら、あるんですけど...。」という返事。
 頭のまわりを?マークが飛び交いました。なぜなら、“昨年”、追加で購入しようと思ったブルーム・フィールドが完売していて、諦めたという経緯があったからです。
 完売したはずの昨年のお茶が、残っているのはなぜでしょう?
 ....クイズにしても、仕方がないですね。
 
マリアージュ・フレール・ジャポンでは、在庫が少なくなった茶葉を随時本国から補充しているということで、補充される茶葉が昨年の物か、今年のものか、という点は本国任せのようで、5月、6月の時点でお茶筒の中にある春摘みは、前年木箱で到着した“今年の新茶”とは別に、補充されたものということです。今年のものも、昨年のものも、同じ価格....それは同じ価値をもって販売されているわけですね。つまり、いつのまにかわたしたちにとっては当たり前になった、紅茶の“旬”へのこだわりはパリ本国のマリアージュでは希薄だったようです。
 それよりも、お茶を飲む様々な場面や時、そして顧客それぞれの好みに対応できる豊富な品揃えを誇るマリアージュは、いつでも顧客のニーズに応えられる品質と在庫の管理に重きを置いている
ということでしょうね。“売れ残り”という感覚はないようです。 

 
 季節の紅茶、旬の紅茶という考え方は、マリアージュの多すぎる茶葉を紹介する過程で、代理店のスタッフが提唱してきたもののような気がします。それは、イギリス流でもフランス流でもなく、日本流紅茶文化の始まりだったのかもしれません。

 もともと紅茶は夏に摘まれるものなのに、春摘みどころかダージリンの夏摘みまでも“今年”にこだわって限定ものにしてしまうレピシエには、「あおられてるなあ。」と感じつつ、日本人の遺伝子には逆らえず、「品切れになる前に買わなくっちゃ!」とあせるわたしは、レピシエで完売した季節限定の茶葉が、マリアージュで購入できることに安心するのでした。

                                        01/10/19