画面のレイアウトが乱れる方へ




 かつて、日本一の過疎の村とまで言われた占冠の地に通年滞在型リゾートとして開発がはじめられたアルファ・リゾート・トマムは、日本経済の低迷に連動するかのように失速して、トマム開発とその後の歩みとは無関係の第三者の手にゆだねられ、2012年には『アルファ・リゾート・トマム』の名称も失いました。1983年12月の開業から20数年、時代を振り返ればアルファ・リゾート・トマムひとつが短命だったわけでもありませんが、開発計画半ばでの幕引きは、リピート利用者には“惜しい”の一言でした。
 今となっては、バブルの遺産、失敗した開発の象徴のように語られるトマムは、2017年に再びの売却がニュースにもなりました。今後は、エリアの一部にクラブメッド開業の計画もあるようすで、アルファ・リゾート・トマムの軌跡は記録からも記憶からも薄れて、単に破綻した巨大リゾートと位置づけられて終わるのかと推すと、残念でなりません。
 過ごしたひとときを結果と共に葬らない為に、10年経っても10年前に楽しんだことを楽しかったと懐かしめるように、今ここで、失われたアルファ・リゾート・トマムの思い出話をはじめることにしました。

 なお、2009年以降、わたしはトマムの地を訪れていません。
 今在るリゾートについては“モノ言う”つもりもありませんが、アルファ・リゾート・トマムの終焉の結果として生じた事柄を、基本的には歓迎できない本音があることはお断りしておきます。当サイト内のトマムに関わる情報、コメントは、2008年以前にアルファ・リゾート・トマムを利用した経験のある方、またはその頃までのトマムをご存知の方、興味をお持ちだった方を対象にしています。

                                     2017/01/12 

 


ガレリアスイートタワー
  


 ガレリアの開業は1991年12月、我家の初トマムから3年目のスキーシーズンでした。

 西エリアにはスポルト1、ヴィズスパハススが同時開業、タワーに隣接のファレスタモールはB棟群が増設され

 ホテル、タワーを中心に置いて、東と西に新設された施設は、トマムの開発が順調に進められていることを感じさせられましたが....。

 建設費未払い云々で、大林組に施設の一部を差し押さえられるなど、資金繰りの問題が表面化するのは93年....報道も一過性のもので、スキーシーズンは何事も無く過ごしたはずなので、これは大事にはいたらず...とはいえ、明らかな失速の予兆は、実は、ガレリアがわたしたちにも開放される『恩恵』をもたらしたのでした。

 新たに出来るタワーホテルは全室スイート仕様との説明をうけたとき、それは楽しみ...とは、わたしはもちろん思いませんでした。利用する日が来るとは考えませんでしたし...もう少し本音をいえば、トマムが、全室スイートの需要があるクラスのリゾートになったから、この先も利用し続けられるのかなという、後ろ向きの感情もありました。少しの背伸び、贅沢は非日常の醍醐味でもありますけど、過ぎたらそれば単なる無理。つま先立ちの背伸びの負担は自分にかえってくるわけで、長く続けられるものじゃありませんから...。
 スイートルームに特化した2本のタワーホテルは、トマム全体の敷居を上げるような感じで、凄い!と思いつつもちょっと複雑...でした。
 ですが、案ずるなかれ..ではなく、不幸なことにガレリアは1棟まるごと(おそらくそれ以上に)会員権が残ってしまったようで、ホテルで充分と言っていた我家にも、手の届く施設になったんですよね。
 
 開業年はレストランのみの利用でしたが、リゾートといえども、北海道のスキー場で、ドレスコードを設けた勇断には刺激を受けましたっけ。ジャケットやハイヒールを持参する一手間も、別フロアでの食前酒も...非日常を彩るには魅力的な『アイテム』でしたけど、開業当初にガレリアが提供していた、提供予定していたクオリティは、かなり早い段階で見直されました。乱暴な言い方をすれば敷居がググググっと下げられた....。


 バブル崩壊の余波で、(トマムが目指したクオリティに)需要が追いつかなかったというところでしょうか。 我家などでも『一期一会の憧れの体験』に終わらず、リピートさせてもらえたことを考えれば、悪い話ではなかったと言えますが、トマムとしては残念につきるのでしょうね。
 まあ、バブル云々以前に、スキー場からリゾートへの過渡期でしたし、滞在型と言っても本気の長期滞在はまだまだ難しい時代(北海道スキーのパンフレットでは、2泊3日、3泊4日がパック商品の主流、4泊.5泊〜となると個人で手配。)、夕食に数時間をあてるスキーヤーは多くはなかったということかもしれません。
 その数時間のために、服はもちろん、靴もバッグも持参していた我家は、ドレスコードが撤廃されてからも,基本スタンスは変えずに利用を続けましたが、負担が軽減されて(気持ちと懐の)利用し安くなることを喜びつつ、開業当主の特別感を惜しむ気分は常にありました。

 ガレリア内のレストランに,夕食権対応の、つまりは他のレストランと同等レベルのコースが登場した時は、さすがに...
 初利用時のコースの食後に、チーズ、フルーツ、アイスクリーム、アントルメ(甘み)...とデザート4皿のラインナップという、滅多にお目にかかることが叶わないラインナップとの差がおおきすぎて、先への不安も感じましたっけ。
 
 客室については別ページでレポート済なので、詳細は割愛しますが、まさか、この価格で??と言って我家が宿泊利用しだしたのは、開業から2年くらい経ってからだったでしょうか。
 パンフレットトでアピールされていたように朝食をベッドルームでと言う選択はありませんでしたが(ルームサービスなし),ミニバーは、まだ充実して揃えられていた記憶があります。
 ラウンジでのバータイムはピアノの生演奏をBGMに...は、1度きりの体験。『早め』の利用で、いい時代を経験させてもらい巻いた。
 ただ、レストラン以外での階でエレベータを止めるにはルームキーが必要というセキュリティシステムは、導入するならルームキーは人数分用意してくれなくちゃ、行動が制約されて不自由でしょうと(先に部屋に戻ってるねということができない...。)いうわけで、最初から感心できなかったシステムでしたけど、撤廃された後も、エレベータ内に残る、ルームキーを差し込口を目にする度、需要が生まれる前に、供給がついえてしまったクオリティを見るようで....つま先達に疲れる前に解放された感じが....もう少し、疲れる経験を積みたかった...。

 上のイメージは使用頻度が低くなってきた頃に撮影した、ガレリア、レスチラン(ルミエール)の食器。
 開業時は、夕食、朝食ともに食器はアビランド製のこのデザインに統一され、銀器は特注ロゴ入りのクリストフルが使われて、パンフレットなどにもこだわりアイテムとしてアピールされていたものです。
 フランス製のボーンチャイナのフォルムはリッツやル・ブリストルと、デザインはル・ブリストルと同じものを選択したようです。(左イメージ。ル・ブリストルのルームサービスのセッティング。98年12月。不鮮明ですが、ロゴのaとbがちがうだけの同デザイン。)ホテル対応の品番だったように聞きましたが、このデザインは廃盤になって補充が出来ず、ル・ブリストルではひねりを加えた感じのフォルム(色は違うけど画付けはほぼ同じ)のニューラインにいれかえられていましたが....トマムとアビランドとの縁は....続きませんでした。

                                  2017/06/18 

 

オスカー(オスカースイートホテル&スパ)



 アルファ・リゾート・トマムの施設の中で、唯一、縁を繋ぐことが叶わなかったのがオスカー、開発計画時の正式名称はオスカースイートホテル&スパでした。


 開業は1992年12月。ヴィラスポルト2、アビチ(ヴィラ・マルシェ)との同時開業で、西エリアは一挙に宿泊施設が増えました。が、それはエリア開発の始まり...というわけで、実はオスカーは、上イメージのように展開される予定でした。12棟のタワー(高層ではない感じ)ホテル群から構成され、ヴィズとはスカイウォークで直結されると...。客室からバスローブ姿でヴィズに行くことができると聞いた覚えがありますが、『書かれたもの』は確認出来ません。スカイウォークは...冬はバスローブ1枚じゃ寒いんじゃないのなどと、現実味を疑いもしましたっけ。
 ともかくも、オスカーは他2棟とともに,アルファ・リゾート・トマムで最後に建てられたの宿泊施設になってしまいましたが、計画の大幅な見直しや変更が、あからさまに目に付く切っ掛けとなった施設ともいえるでしょうか。
 93年1月に、新設された建物を見た時に、わたしたちがまず驚いたのは、外壁がタイル張りではなくペイント仕様になっていることでした。占冠村の公共施設もトマムカラーのタイル仕様に統一したと言われているのに,トマムエリア内に統一感の無い建物(しかも一足先に開業のスポルト1だけはタイル仕様)を見るとは思いもよらず、それなりに衝撃をうけました。外壁変更の経緯を推すのは別ページに置くとして、変更自体は、西エリアに展開予定のヴィラ・マルシェはヨーロッパの中世都市(シエナだったかな)をイメージしたとかで、開業前のイメージイラストではトマムカラーのタイル仕様ではなくなってますから...単にわたしが気がつくのが遅かっただけともいえますが,オスカーは直前の案内でも低層タイプと中高層タイプの二つが誕生とありますから...12棟群からなるイメージがとは別ものになってますよね。
 で、92年に開業したのが低層タイプ...で、その後に中高層タイプの計画は、進行の気配も無いまま過ぎましたっけ。


 オスカーは、ガレリアを越える客室の広さと、ヴィズ隣接のロケーションがアピールポイントでしたが、独立性の高い二つのベッドルームとリビングルームという客室レイアウトは、我家には全く不要の仕様だったため、興味本位にででも利用をする気にな慣れませんでした。スカイウォークでヴィズと繋がるまでは、利点をみいだせなかったんですよね。
 
 ゲレンデへのアクセスも、...近いとはいえ、動線は整備されておらず、スポルトのロビー階を通り抜けるわずらわしさがありましたしね。
 取り急ぎ客室は完成したけど、宿泊環境は整えられないままの開業という感じで、正直、この状態で利用者はいるのかと,余計な心配もしましたが......いなかったんでしょうね...。開業翌年のグリーンシースンには、早くもクロースしていたと記憶しています。

 93年のスキーシーズンには、我家はできたてスポルト2に宿泊していましたが、エリア内循環バスがオスカーに寄ったのは、(我家の利用時に限れば)この時だけでした。
 客室はともかくレスタランやラウンジがあるなら要チェックとばかりに、この時にわたしたちはロビー階を覗きに行きました。
 いわゆるレストランは未設定で、ラウンジが営業中でしたが...スポルト終点の手前でバスを降りて、様子見に入館したわたしたちは、折角だからラウンジでくつろいでく?という話にはならず、今じゃなくてもいいねの判断で、戻ったのでした。...悔やまれます。
 よもや、次が無いとは...オスカーの増設には?マークでしたが、開業した施設がすぐに閉鎖される予想はつきませんでした。
 数ヶ月後のグリーンシースンにはオスカーは稼働していたものの、ラウンジの営業はなく、それきり...気づけばオスカー自体のクローズがあたりまえとなっていきましたっけ。
 ベッドルームがふたつあっても仕方ないし....は本音ながら、ヴィズと直結されれば、いえ、それはあとまわしでも、館内にスイートホテルのクオリティを有したレストランやラウンジが出来ればとの期待は、短期間でついえました。

 随分経ってから、とある年のグリーンシーズンにオスカーの窓に明りが灯っている場に遭遇して、妙に嬉しく、少々興奮した自分がおかしかったことがありましたが、音大の合宿の練習スペースとして提供しているだけで、(宿泊はスポルトだったでしょうか...。)客室内、宿泊出来る状態ではなくなっていると聞かされた事実が、切なかったです。
 西エリアの隅で、朽ちて行くばかりのスイートホテルは、トマム失速の象徴のようでした。

 上イメージは2000年6月23日に撮影。
 エントランス前は便宜的駐車スペースとして使われて、建物の、窓枠回りに傷みが表れていました、


                                  2017/06/29 

VIZ (ヴィズスパハウス)

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 通年型山岳リゾートの象徴と位置づけらたVIZスパハウスのデビューは92年、12月でした。

 スキー場の宿泊施設にプールが併設されるという話ではなく、エリア内に全天候型巨大プールを有したウォーターパークが生まれると言うことで、ヴィズは開業前から何かと話題を集めた施設でした。
 プールには波が出る、サウナコテージや、丸ごとジャクジーか泡風呂かという類のスパコテージや、ラウンジやカフェテラスもある、凄い規模の....でもプールだよねと言うわたしの思いは、上方修正に至らずに開業の時を迎えたた覚えがあります。スタッフからの事前情報にもさほどあおられること無く...そんなにまで言われるならトマム滞在中にヴィズをスルーするわけにはいかないかな〜、と言う程度の期待値だったでしょうか。
 午前中に滑って、昼食をとって、休憩して、午後に少し滑って、夕食前にちょっと昼寝の日程の中で、水着に着替えてプールで遊ぶ余裕がある?という時間的な問題も少なからず...。なにしろ開業時の入場料が5戦円でしたから、利用するからにはゆっくり、じっくりというせこい根性も、もちろんありましたっけ。
 
 それでも初年度にヴィズに入場した我家は、自分で感じている程、『冷静』ではなかったのかもしれません。
 ツアー割引きがあったようには記憶していますが、現地にて...は、とにかくカモネギ状態で、吸い寄せられた気がします。
 
 開業前のヴィスの紹介や案内にはイラストイメージが多用されていて、そのイラストのキャラクター達がスタイリッシュにすぎて、なんか凄そうなヴィスの雰囲気に現実味が湧かないままにの初利用でしたが、ガラス張りの巨大な施設の内部は、未体験の迫力と美しさにみちて、圧倒されましたっけ。
 できたてホヤホヤで、綺麗なのはあたりまえなんですが、...なんでしょう、迫力のある美しさは、スケールメリットと妥協なきこだわりの産物だったのでしょうね。
 ゆらぐ水面の金色を帯びた色合いは、西ドイツ製の白いタイルの効果だとか、雪景色を眺めつつ波音をBGMにくつろげるのは、数10度の気温差にも曇ることのない3層ガラスの威力だとか、ロゴプールの底面のハマナス画が立体的に浮か上がって見えるのはイタリアのモザイクタイルと技術の成せる技だとか...作り手の吟味とこだわりを知るのは、後のこと。技や工夫への感心は後回しにして、湯煙たつロゴプールのハマナスに雪が舞い踊る幻想景観を、寒さも忘れて見とれました。

 いえ、もちろん寒さへの自覚はありましたが、頭寒足熱!髪が凍る気温でも、プールの中は心地よかったんですよね。
 問題はサウナコテージ、リラクゼーションコテージからアウトドアロゴプールへのアプローチの数秒でした。室内から外へ、冬季はガラス扉を押し開けた瞬間に、全身で数10度気温差を受け止めなくてはならなない試練の第一歩でした。
 ここで、小走りになるのは美しくない...などと言ってられないゲストも多かったようです。(わたしの場合は立ち振る舞い云々以前に、転倒のリスクを回避するべく...の安全重視)

 でも、マイナス10度以下はあたりまえ、マイナス20度以下も珍しくはない極寒の地でのアウトドアプールです。当初はロゴプールの他に、スパコテージの両サイドにアウトドアジェットバスも稼働してましたが、その回り(ゲストが歩くエリア)には床暖房が導入されていたようです。
 冬季、外に出る時には,外気とともに、床のつめたさに気合いが必要でしたけど、暖房が入っていたから「冷たい!」ですんでいたんですね。そうでなきゃ,足の裏が床にくっついて...大事ですよね。
 冬季は一秒たりとも暖房を止められない屋外アイテム...印象的な美しさの維持は、容易くなかったということですね。

 早々と稼働を止められたジェットバスに対して、ロゴプールはずっと,ヴィズのシンボル、ハマナスの花を浮かび上がらせていましたが....残念だったのは、外に出なければ目に触れる機会も得られにくかったことでしょうか。
 建物側面ので入り口からカーヴを描く階段を降りれば、そこがロゴプール...つまりは出入り口に立てばロゴプールを上から見られる環境はあったものの、側面の出入り口はすぐに閉鎖状態になったんですよね。
 館内温度管理が優先されたのかもしれませんし、階段の床暖房設置に課題があったのかもしれませんが、使われなくなった出入り口の外には雪も積もりますから...館内からの視界は遮られますし、室内から全景を眺められたリラクゼーションコテージも営業は長く続けられませんでしたから...折角のシンボルが...雪国では密やかに過ぎた気がします。
 モザイクタイルもすぐに不具合がj生じて、全面的に張り替えがおこなわれるなど、寒冷地リクスへの対応は甘かったのかもしれません。
 雪対策も大変そうでした。降り積もる雪は...基本的には軽いので...ちょっと大変そうどまりの話ですが、屋根から滑り落ちる雪が、非常口をあっという間に塞ぐじゃありませんか!圧縮されて重みを増した大量の雪と格闘するスタッフをみるたび、なぜに非常口に落雪対策をしなかったのかと...。
 寒冷地にあって、冬季は雪と融合してこそ完成するヴィズ、冬の美観でしたけど、維持管理コストを考えると、小さくないお荷物だったかもしれませんね。
 (唯一無二のこの美観を、吟味ともこだわりとも関係の無かった新運営会社が、とっとと壊してしまったのは、経営上は正しい判断だったというべきでしょうか???)

 右イメージは、ヴィズの完成予定図。
 上半分が第一期として、92年に開業した部分です。

 下半分....ロゴプールの先に、森に囲まれて....メディカルケア、メンタルトリートメント、アスレチックジム、エアロビックジムスパやサウナ等のコテージを併設して誕生予定だったのは、アウトドアラッププール......。スタッフの話によると『川が流れるプール』とかで、右の計画図でも、白い線で水が流れる様子が表現されています。
 この規模のアウトドアプールを、マイナス20度を下回る日がある地に計画していいたとには驚きを禁じえませんが、無責任なゲストの立場でいえば、短期間でも完成されたヴィズの全景を観てみたかった。ロゴプールのインパクトを思えば、雪化粧をほどこされたラッププールは、どれほどか希有な美しさを見せてくれたかと、想像するにつけ残念です。

 最も既存の施設も10持たずに様相をかえました。
 (ヴィズ、10年今昔物語参照
 
 二期開発計画は、もとより無謀な理想郷像ったのかもしれませんね。
                  2017/07/08 

 

苫鵡の達人(トマムスタッフからのラブ・レター)

 1994年1月15日、『苫鵡の達人』の創刊号が発行されました。
A4サイズの裏表に、スタッフ発のトマム(と周辺)情報が綴られた1枚モノで、トマムスタッフからのラブ・レターという副題がつけられていました。
 手元に保管している物を見直してみると、Y.K氏は、40号で一度だけ発行人の肩書きになっているほかは、2001年夏まで、約7年、編集人としてお名前の記載があります。発行人は、記載があったり無かったり。また、編集スタッフ(Editorsと記載)は、創刊号は15名(レイアウト含む)、2号以降は増減有りの10名前後で98年には6名...月刊から季刊に変わった99年からは2名になり、その後、Editors枠がなくなりって、編集人連名の2名体制、Y.K氏のお名前が消えてから間もなく、製作:日月社が登場しています。
 運営会社アルファ・コーポレーションの倒産が報じられたのが98年5月ですから....よくスタッフからのラブ・レター企画が続けられたと思いますが、それでも...製作人員は減り、月刊紙としても苫鵡の達人の寿命は98年11月、Vol,58でついえました。
 我家にVol,59が保管されていないという可能性もゼロではありませんが、Vol,58発行のおよそ1年前、つまりはアルファ・コーポレーション倒産報道の半年程前に、スタッフはアルファ・コーポレーションを退職、関兵麦から運営委託を受けた加森観光が、設立したリゾート・マネージメントに転職という大事に置かれていたわけで、『苫鵡の達人も』ペースを乱しながらの発行でした。
 98年スキーシズンが終わった4月はVol,52に続いてVol,53が発行、ただし5月の発行は無く、6月にVol,54が発行されたのち、7月、8月、10月、11月に発のVol,55~Vol,58はタイトルデザインも一新され、トマムスタッフからのラブレターの副題もなくなりました。『苫鵡の達人」未発行の9月は...夏休み終了とともに、ヴィズ、ガレリア、スポルト等が一斉に(ウルトラCと言われた破綻整理、運営方針が公表されるまで)閉鎖されていた時期で...Vol,58までの数枚は、トマムの外にテーマを設けた記事が目につきます。北海道のお土産とか、北海道独特の方言集とか、今になって読み直すと、「読み直“苦労のとき”が察せられます。
 創刊当初の苫鵡の達人は、トマム滞在中のお役立ち情報が多く、編集スタッフが個々にコーナーも受け持っていて連載された企画もありました。売店部達人:J . Y 氏の“どこでもインタビュー”は、不定期ながら17回、VOL48まで続けられています。最長コーナー...でしょうか。他にも、近郊の温泉紹介や、『お仕事』のエピソード、レストラン紹介の“味達”など、スタッフからのラブ・レターは、情報量の多い1枚でした。

 
  後半は、そば打ち、茸狩り、エビとり、ソフトクリームの食べ比べ、パン作りなど、達人スタッフの体験レポートが特集されることがおおくなって、内容は流動的でしたが、特トマム滞在に直接役立つ話ではないものの、スタッフへの親しみを増したゲストも少なくなかったのではと思います。

 当時の和食料理長の名前がつけられた**農園(エリア内の小さい畑だったらしい)で当時はまだ珍しかったインカのめざめが収穫が収穫されたとの記事を読んでから間もなく、レストランで提供されたサツマイモのように黄色いジャガイモ...“自家製インカのめざめ”との説明に、妙に受けてしまったことが思い起こされます。
 『苫鵡の達人』で品種名を知り、トマムで口にしたのが、我家の初インカのめざめでめしたっけ。

 昨今は、公式HPでの必要な情報は入手できるし、担当スタッフがブログを開設しているケースも珍しくなくなりましたが、50数枚重ねた紙の重みは、想いの深さに連動しているようで、代えられない『大切さ』を感じさせられます。
 1枚1枚が、思い出への扉を開く鍵となって、懐かしさの波におぼれそう...。

 上イメージは創刊号から54号まで、55号からタイトルデザインが変更になり4枚(右上イメージ)が発行されました。
 月刊(原則)苫鵡の達人はここまで。Vol,58の製作スタッフは、創刊号より10名減の7名、内2名が、創刊当初のメンバーでした。...お疲れさまでした。

                                   2017/11/01 

 

ヴィラマルシェ

 トマムにしエリアに生まれる予定だった、街の総称がヴィラマルシェ。
 イタリア、シエナをモデルにしたと聞かされた記憶がありますが、手元に残っている案内をみかえすと、『ヨーロッパの中世都市』をイメージしたとの記載があります。案内は計画中の資料で、トマム山も

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